- 新発見!デ・ラランデ設計の洋館

1 ポール邸
(臼井齋氏寄贈・
当館所蔵写真)

2 風見鶏の館
(撮影:青木祐介)
昨年度、磯子区在住の臼井齋氏から、内外建築関係雑誌の切り抜きを中心とした644点の資料の寄贈を受けた。ここで紹介するのは、その中にあった1枚の洋館の写真である。
この写真(図1)は以前にも、『横濱』Vol.8(2005年春号)掲載の拙稿「西洋館のある街・山手」で紹介したが、これまで知られていなかった新発見の洋館であることには触れず、ドイツ系意匠の一例として紹介しただけであった。そこで、あらためて本誌の紙面を借りて、この写真の分析の経緯を記しておきたい。
わずかな手がかりをもとに
分析の出発点となったのは、写真の裏にあった”Villa Pohl Yokohama”という書き込みと、写っている洋館の建築様式である。
この煉瓦造の洋館ははじめて目にする建物であったが、デザインについては見覚えがあった。神戸の「風見鶏の館」(図2、旧トーマス邸、国指定重要文化財)の設計者として知られ、横浜でも設計事務所を構えていたドイツ人建築家デ・ラランデ(G. de Lalande)の作風と似ていたのである。とくに中央の妻壁にみられる破風曲線は、デ・ラランデが得意としていたもので、彼が設計した他の建物にもよく用いられたデザイ
ンである。
しかも、この写真の寄贈者である臼井齋氏の父、臼井泰治氏は、デ・ラランデの設計事務所に製図工として勤めていた。デ・ラランデは1903年5月に来日し、山手にあったドイツ人建築家ゼール(R.Seel)の事務所に入るが、ゼールの帰国後に事務所を継承し、翌1904
年11月には山下町に事務所を移している(堀勇良『外国人建築家の系譜』至文堂、2003年より)。ディレクトリー(外国人住所録)から当時のデ・ラランデ事務所の所員を探ってみると、確かに1907年版以降、”T.Usui”という名前が確認できる。臼井泰治氏のことであろう。臼井氏の名前は、1908年4月にデ・ラランデ事務所が東京に移ったのちも、所員として記載されている。

3 イリス商会
『建築写真類聚
銀行会社 巻一』
( 当館所蔵)より
居住者と所在地に迫る
そこで、デ・ラランデが横浜に事務所を構えていた時期で、横浜在住のポール(Pohl)姓の人物をディレクトリーから拾い出してみると、4人の候補が出てきたが、このなかにデ・ラランデとの関係を推測できる人物が1人いた。
それは、ドイツ商社のイリス商会に勤めていたルドルフ・ポール(Rudolf Pohl)である。山下町54番にあったイリス商会の社屋(図3、1907年)を設計したのはデ・ラランデであり、その関係でルドルフの住まいの設計も依頼されたと
考えられるからだ。
続いて、この時期のルドルフの住所の変遷をディレクトリーからたどっていくと、山手127番(1904年版)、山手
10番(1905年版)を経て、1906年版以降、山手125番Bに落ち着く。現地を歩いてみたところ、写真のように前面の敷地と段差があり、背後の低地を隔てて遠方に丘陵地を望む地勢は、山手125番Bがピタリと一致した(図4)。背後の低地は千代崎町、丘陵地は当時「大神宮山」と呼ばれた根岸の丘である。遠景に写る住宅は、北方大神宮周辺の外国人住宅群であろう。
一方、山手125番Bの居住者の変遷を調べてみると、1904年版には “D.Robinson”、1905年版には記載がなく、1906年版からルドルフの名前が登場する。一年の空白は、建物の建設中と解釈することができる。したがって、当初は洋館の建設年代を1904―05年と考えていた。
4 山手125番地Bの所在地
“The Japan Directory 1889”(横浜開港資料館所蔵)付図をもとに作成
建設年代・再考
ところが、ディレクトリーを丹念にめくっていくと、ルドルフの名前は1910年版でいったん消えたあと、1911年版以降、今度は同じ125番Bに夫婦で登場するようになる。
ならば、このときに結婚後の新居として建てられたとも考えられよう。ルドルフが125番Bに住みはじめた1905年頃は、デ・ラランデ事務所も独立したばかりである。むしろ、イリス商会社屋の建設(1907年竣工)でデ・ラランデの腕前を認めたルドルフが、自邸の設計を依頼したと考えた方が自然であろう。この時期、デ・ラランデはすでに横浜を離れているが、1909年には、神戸の分室を拠点として「風見鶏の館」を手がけるほど、事務所の規模も大きくなっていた。1910年版の空白こそ、煉瓦造の洋館を新築していた時期だと考えられるのではないか。
以上が現時点での推測である。洋館の設計者はデ・ラランデ、所在地は山手125番地B、居住者はイリス商会のポール夫妻、建設年代は1909―10年。
残念ながら、建物は現存しない。おそらくは関東大震災で倒壊したと思われる。ディレクトリーではポール夫妻の名前は1921版までは確認できるが、その後、ルドルフはイリス商会を離れたようである。
最後に、貴重な資料をご寄贈くださった臼井齋氏、寄贈を仲介していただいた広島平和記念資料館の菊楽忍氏に、この場を借りて御礼申し上げます。
(青木祐介)
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