- 横浜 ノスタルジア ―昭和30年頃の街角―
広瀬始親(ひろせもとちか)氏は昭和30年前後に集中して横浜市中心部の情景をカメラに収めた。そのモノクロの写真には、当時の横浜の街が放っていた強烈な光と影が写しとられている。広瀬氏の写真を見ていると、その時代に青春を送った人、働き盛りだった人はもちろん、その頃は生まれていない世代であっても、「懐かしいなぁ」という郷愁の念、ノスタルジアが湧いてくるのではないだろうか。
この頃の横浜は敗戦の影を色濃くひきずりながらも、それにおし潰されることなく、人々がたくましく、表情豊かに生きていた時代であった。
接収地が広がる横浜
― Occupied Japan
昭和20(1945)年8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが兵士1200人を従えて進駐し、横浜の占領は始まる。総司令部GHQはまもなく東京に移ったが、横浜には沖縄を除く日本全土の占領を担当することとなるアメリカ第八軍の司令部が置かれ、半年後には9万人を越える規模の占領軍が市内各地に展開した。
市中心部はその年の5月の大空襲ですでに焼け野原となっており、わずかに残った建物もほとんどが進駐軍に接収された。横浜税関はアメリカ第八軍司令部、伊勢佐木町の松屋百貨店は病院、野沢屋はP
X(米軍購売部)、不二家は将校用のヨコハマ・サービス・クラブ、オデヲン座はオクタゴン・シアターとなり、日本人はオフリミット(立ち入り禁止)となった。横浜は日本占領の拠点となり、特に中区は昭和21(1946)年の段階で区域の35%が接収されていた。


写真1 住吉町1丁目付近
昭和28(1953)年12月
写真2 本牧米軍住宅前を通るお馬流しの行列
昭和31(1956)年8月
昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約の発効によって独立が回復されると、接収されていた土地・建物の一部が返還されはじめた。関内地区は昭和27年11月に接収解除となったが、写真1はその一年あまり後の住吉町である。これは横浜公園の横から住吉町を撮影したもので、後方に見える馬車道まで、ひたすら空き地が広がっている。「無断出入禁止」の立札と「在日米軍バス停留所」の標識がぽつんと立っている。手前の通りはバスのルートでもあり、当時米軍がサード・ストリート(3rd Street)と名づけた現みなと大通りである。
本牧では依然としてエリア1、エリア2と呼ばれた米軍住宅地区が広がっていた。写真2はエリア1の住宅地の前を行くお馬流しの行列である。お馬流しは本牧神社に伝わる神事で、茅(かや)でつくった馬に災厄を託し本牧の海に流す祭りである。お馬様が入った輿(こし)を運ぶ宮司の姿と「フェンスの向こうのアメリカ」の対比が印象的である。
復興へのエネルギー


写真4 開港百年祭の伊勢佐木町
昭和33(1958)年5月
写真3 仁義なき戦い
昭和28(1953)年4月
日ノ出町・黄金町付近の大岡川沿いで遊ぶ子供たち。

写真5 根岸線の建設工事と市庁舎
昭和36(1961)年8月
朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站(へいたん)基地となり、接収が続いた反面、特需ブームにより経済的復興をとげていく。昭和29(1954)年は日米和親条約調印百周年にあたり、開国百年祭が行われた。横浜市は昭和31(1956)年には政令指定都市となり、人口も117万人を超えた。さらに昭和33(1858)年の横浜開港百年記念事業として、本格的な市役所の建設、市民病院や文化体育館の建設、横浜市史の編集事業などが実施された。昭和33年5月10日には横浜公園平和球場で市民3万5千人が参加して記念式典が挙行された。写真4は開港百年祭にあわせて行われた吉田橋の渡り初め祝典の模様である。
写真5は昭和34年4月に着工した根岸線の工事進捗状況をとらえた貴重な一枚である。撮影されたのは昭和36(1961)年8月、背景には2年前に竣工した横浜市役所が写り、手前には港橋と派大岡川を収める。
この後高度経済成長期に入り都市整備が進む中で、派大岡川をはじめ市中心部の川は埋め立てられて道路となり、昭和30年前後の横浜の面影はだんだんと街から消えていく。
(横浜開港資料館 伊藤泉美)
*写真はすべて広瀬始親氏撮影寄贈・横浜開港資料館所蔵
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