横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • にぎわいを取り戻した大さん橋
   このコーナーでは、市民の皆さんが語ってくださった戦前・戦後の横浜を、写真とともに紹介します。

思い出の写真
写真提供:松井貞雄氏
第6号 2006年5月

思い出の写真
 老いた今日、写真のアルバムを整理していると、23才当時の思い出の写真が目に止りました。昭和30年夏、横浜市中区海岸通り横浜税関裏に有る東西上屋倉庫の雨漏り修理に来て、トタン屋根の上から写した全国で只一枚の写真。
 後方に見えるのは山下大さん橋ふ頭で、そのさん橋に接岸して煙突から煙りを出しているのが蒸気大型貨物船と大型客船だと思う。手前に見える象の鼻の様に出ている堤防の内側には、大型船から色々な荷物を順番に待つ小船が沢山浮いている。小船は荷物を積み替え、今は無い桜川や、大岡川、帷子川沿いに昇り、石炭、砂利砂、食料を川の端に有る問屋やお店に降ろして来る。
 屋根の上で金づちとバールを持っているモデルは俺です。22才の時群馬の片田舎から出て来て、当時は職が無く一年浪人。やっと職に付いた板金屋根の見習いで、まだ腕は半人前。親方の所に弁当持参で働き一日300円、真面目に働いても月8100円位、商売道具を一丁ずつ買う為、贅沢(ぜいたく)も出来ず金も無く、針も持てず作業ズボンも買えなかった俺。ご覧の通りの穴開きズボンを履いていた。
 屋根をはがすと倉庫の中はイワシの缶詰や鯨の缶詰が、高さ10メートル幅30メートルと山ほど積んであった。中を見ると上の方には頭の黒いねずみが食べた空き缶が沢山有った。丁度写真機を持っていたので「はいポーズ」。これが重要な記念写真になった。

(横浜市戸塚区 松井板金資材株式会社・代表取締役会長 松井貞雄氏)

 1945(昭和20)年の終戦後、空襲による破壊をまぬがれた港湾施設の大部分は、占領軍による接収を受けた。大さん橋も「サウスピア」とアメリカ流に名づけ直され、軍事利用に供された。
 大さん橋の接収が解除されるのは、1952(昭和27)年のことである。写真中の大さん橋にはすでに何艘(そう)もの大型船が停泊し、周辺は、荷役に従事する多くの艀(はしけ)でごった返している。
 にぎわいを取り戻しつつあるミナトの風景と同調するかのように、一職人として出発したばかりの意気揚々とした松井氏の姿が印象的である。
(青木祐介)