- 常設展示より 神中鉄道沿線案内


−常設展示より−
神中鉄道沿線案内
当館所蔵
行楽地開発の夢
現在の相模鉄道の起源は、大正6(1917)年に瀬谷(せや)村の小島政五郎らが中心になって設立した神中(じんちゅう)鉄道株式会社に遡る。翌年5月現在で、小島の300株を含めて瀬谷村の住民が1000株余、鎌倉郡全体で1300株余、高座郡1500株余、横浜市1100株余の出資があった(横浜開港資料館所蔵中丸定夫家文書による)。地域密着型の企業だったことがわかる。
大正15年に二俣川〜厚木間が開通、折しも横浜は関東大震災の被害からの復興の途上にあり、その資材として相模川の砂利を輸送して復興に貢献した。昭和8(1933)年には念願の横浜駅乗り入れを果たした。ここで紹介するのは、その年に刊行された沿線案内であると思われる。
神中鉄道も他の私鉄各社と同様、沿線で住宅地や行楽地の開発に努めた。案内の裏面にはその説明があり、「文化住宅地」として鶴ヶ峰・二俣川一帯を「土地高燥、風光絶景」と宣伝している。図には瀬谷の南方にも住宅地の記載がある。
行楽地としては、二俣川・三ツ境(みつきょう)・瀬谷の北部一帯の開発が目指されていたようである。会社が瀬谷で開催する芋掘会には2万人の参加者があると記されている。東野(あずまの)では初茸狩りが盛んだったという。しかし、図に見える「道楽園」「牡丹園」「乳出ノ清水」などはどうなってしまったのだろうか。図中の三仏寺と妙光寺(「妙高寺」とあるのは誤り)は現存するので、両者に挟まれた地域というと、程ヶ谷カントリー倶楽部や米軍上瀬谷通信基地のある辺りである。
戦時体制下、この地域には海軍横須賀鎮守府瀬谷補給廠(しょう)や大日本兵器株式会社瀬谷工場が存在していた。この地域に行楽地を作ろうとした神中鉄道の夢は、深まる戦時色のなかで、かき消されてしまったのだろうか。
(斎藤多喜夫)