横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 観光のヨコハマ

土地観光課の新設

1930年代中頃の日本は、大恐慌の影響から徐々に回復し、全国的にツーリズムが拡がりつつあった。1930(昭和5)年には鉄道省に国際観光局が設置され、翌年には国立公園法が成立するなど、外国人観光客増加による外貨獲得を目的とした、政府による観光事業への取組が始まった。これに呼応して各自治体では、観光施設・ルートの整備を図ったり、映画・ラジオによる郷土番組などの新しいメディアを活用して観光地を積極的に宣伝し、地域振興を図ろうとした。神奈川県でも、湘南公園道路計画、箱根国立公園計画などが1930年代前半から進められていた。1935年から翌年にかけて、東京オリンピックと万国博覧会の1940年開催が具体化してゆくなかで、主要観光地では観光祭が開催され、ホテル・自動車道路などの社会資本の整備・新設が相次ぐなど、観光ブームは急速な高まりを見せていった。

横浜市は、1935年の復興記念横浜大博覧会を機に観光事業に本格的に着手し、1936年8月に土地観光課を新設した。当時の市長・青木周三は、それまでの緊縮政策を転換し、貿易振興と工業立市の積極政策を打ち出していた。彼は、元鉄道次官という自らの経歴を生かして、当時未だ桜木町止まりであった省線を滝頭方面まで延長し(現在の根岸線)、根岸湾を埋め立てて万国博覧会の第二会場、東京オリンピックの競技場を招致し、この付近を一大行楽地として開発し、さらに付近の高台に郊外住宅地を建設するという、商業地・工業地・住宅地のバランスの取れた都市創りを目指していた。土地観光課は、彼のそうした理想を実現するための牽引役とも言うべき役割を期待されて誕生した。

横浜市土地観光課(宣伝招致係)事業一覧

年号は昭和

第6号 2006年5月

『横浜市事務報告書』(昭和11年〜13年)及び『昭和13年度ニ於ケル横浜観光協会事業概要』

より作成

第6号 2006年5月

1 『ヨコハマ』

(加山道之助資料・

横浜開港資料館所蔵)

第6号 2006年5月

2 『観光のヨコハマ』

(横浜開港資料館所蔵)

横浜アピール作戦

土地観光課には管理係と宣伝招致係の二係があり、前者は市有土地建物・公会堂の管理処分及び永代借地に関する事項を扱い、後者は(1)土地の利用開発に関する事項(2)一般市勢の紹介及宣伝に関する事項(3)観光施設に関する事項(4)内外観光客の誘致及接遇に関する事項(5)宣伝招致の為にする各種催物に関する事項を担当していた(「横浜市庶務規程」)。宣伝招致係の活動は、出版物や映像などを活用したPR(宣伝招致)、イベント開催、観光事業者等を集めた座談会・講習会の開催、旅行団・視察団の案内などに分かれる【表】。土地観光課は、これらの事業を1937年に発足した横浜観光協会と連携して実施していくが、とくに力を入れていたのは、観光地・住宅地・工場地としての横浜市の魅力を、小冊子・ポスター・案内本・映画・展示会など様々な媒体を通して内外にPRすることであった。

【写真1】は週刊で発行されていた雑誌で、創刊号から11号までが確認されている(1937年2月25日〜5月6日)。この雑誌では、近代日本文化発祥の地として多くの史跡を持つ横浜の魅力が繰り返し語られている。また土地観光課は、1938年3月に『観光のヨコハマ』【写真2】、『文明開化の横浜』という小冊子を同時に刊行している。前者は関内・山手地区を中心とした横浜の観光名所を修学旅行生向けに紹介したもの、後者は三十一にのぼる「もののはじめ」を紹介し、末尾に三つの遊覧コースを掲げている。いずれも、多数の写真を配置し、デザインなどにも意匠を凝らしている。

第6号 2006年5月

3 『横浜 秋』

(横浜開港資料館所蔵)

第6号 2006年5月

4 「住みよい横浜」

(福岡市博物館所蔵)

【写真3】は、1938年11月に発刊された『横浜 秋』の一頁である。臨海部の工業地帯の写真を背景に、工業用原料が安価で入手できること、低廉な電力・潤沢な工業用水・優秀で豊富な労働力を活用して生産費低減が可能なこと、さらに水陸交通網が完備して出荷販売に便利なこと、低廉な工場用地が多く、市税免除などの特典が付与されること、などを挙げて、「工場は必ず横浜へ」と呼びかけている。

【写真4】は、海を臨む高燥地にある郊外の文化住宅を髣髴(ほうふつ)とさせるポスターである。先の『横浜 秋』の「住みよい横浜」と題する欄では、横浜が「頗る景勝に富んで夏涼冬暖」の地であり、電車・バスなどの交通機関、学校・上下水道・塵芥(じんかい)処理・医療機関などの社会資本が充実し、また物価・地価ともに東京よりも安く、その上娯楽施設・運動施設なども相当整備されており、東京近郊では「稀れに見る理想的住宅地である」と謳(うた)いあげ、桜ヶ丘・生麦・菊名・横浜駅裏・山手などの住宅地を写真付で紹介している。この場合、最大のターゲットとされていたのは、主に東京のサラリーマンたち、新中間層の人々であった。

戦時から戦後へ

1939年横浜市は第六次市域拡張と同時に大幅な機構再編を行い、観光行政を扱う部門は産業部開発観光係へ引き継がれた。日中戦争が長期化してゆくなか、東京五輪・万博ともに中止となったが、同係では『ヨコハマ案内』『市民ハイキング案内』(1940年)などのパンフレット、案内地図の作成などを続けていた。

戦後、産業部を引き継いだ経済局や、1961年に発足した横浜市観光協会(現在、財団法人横浜観光コンベンション・ビューロー)を中心に、観光地横浜のPRは続けられ、日本貿易博覧会(1949年)、開国百年祭(1954年)、開港百年祭(1958年)、市制百周年記念の横浜博覧会(1989年)と、周年事業の大規模なイベントも行われ、横浜の集客力は飛躍的にアップした。

現在、横浜市では、2009年の開港150周年を前にして「観光入込客数4000万人都市」を目標に、横浜の持つ地域資源、特性を最大限に活かし、市民から外国人まで多くの人々を集客して、観光・コンベンションをはじめ、ショッピング、スポーツイベント、文化芸術活動などを活性化させていくための「観光交流推進計画」が策定・推進されている。

(横浜開港資料館調査研究員 松本洋幸)

参考文献

高岡裕之「観光・厚生・旅行」(赤澤史朗・北河賢三『文化とファシズム』、日本経済評論社、1993年)

横浜市総務局市史編集室編『横浜市史�U 第一巻(上)』(横浜市、1993年)

平野正裕「湘南公園道路の構想とその建設」(『茅ヶ崎市史研究』19、1995年)

古川隆久『皇紀・万博・オリンピック』(中央公論社、1998年)