- 水沼淑子 日本を愛した建築家J.H.モーガン
日本を愛した建築家J.H.モーガン
関東学院大学人間環境学部人間環境デザイン学科教授
水沼淑子

1 着物姿のモーガン
当館所蔵
ハマの建築家 J・H・モーガン
開国以来、多くの外国人建築家が日本を訪れ各地に足跡を刻んだ。横浜と縁の深い外国人建築家は数多くいるが、関東大震災後の横浜で活躍した外国人建築家といえば、J・H・モーガンだろう。
モーガンは1920(大正9)年、アメリカの建設会社フラー社の設計技師長として来日した。シカゴやニューヨークの高層ビルの建設で頭角を著したフラー社は、第一次世界大戦後の日本にアメリカ式の近代的施工方法を伝授すべく招聘(しょうへい)され、丸ビルや日本郵船ビルなどを手がけた。フラー社は日本進出に際しアメリカから建築家を連れてきた。日本で仕事を展開するためには自前の建築家が必要と判断したのだろう。それが、モーガンである。丸ビル建設に際してのモーガンの役回りは施工に関わる図面の作成などにあったようだが、1921(大正10)年にフラー社が施工した神戸クレッセントビルや1922(大正11)年の立憲政友会本部はモーガンが設計を担当した。モーガンはこうして日本での建築家としてのスタートを切った。
フラー社は関東大震災後、さまざまな要因で日本から撤退する。しかし、モーガンはそのまま日本に残り、日本で建築家として生きる道を選択した。東京の日本郵船ビルに事務所を構えた後、1926(大正15)年に横浜に移り、1928(昭和3)年には自らが設計した横浜関内のユニオンビルディングを本拠とし、1937(昭和12)年、横浜で逝去するまで旺盛な設計活動を展開した。

2 モーガン夫人
石井たまのさん
当館所蔵
モーガンの経歴
さて、モーガンはいかなる経歴をもつ
建築家だったのだろう。モーガンは1873年、ニューヨーク州バッファロー市に生まれ、ミネアポリスの建築家ダネルのもとで建築の修行をした後、州の建築課、鉄道会社、フラー建築会社などで経験を積み、20世紀初頭にはニューヨークのマディソンアベニューで建築設計事務所を自営した。アメリカでのモーガンの作品には劇場、オフィスビル、集合住宅などさまざまな種類の建築が並ぶ。古典主義に基づく建築がほとんどだが、用途に応じて巧みに変化を付けながら器用に仕上げている。フラー社がモーガンを日本に伴ったのはこうした器用さを買ってのことだったのかも知れない。
モーガンは来日後まもなく、東京ステーションホテルで英語の本を読む一人の女性と出会う。石井たまのさんだ。たまのさんとの出会いこそ、フラー社撤退後もモーガンが日本に留まることになった大きな要因だろう。たまのさんは私生活のパートナーであったのみならず、セクレタリーとしてモーガンの日本での設計活動を補佐した。

3 アメリカ領事館
(1931年竣工、現存せず)
当館所蔵

4 関東学院中学部
(1929年竣工、現存)
『この丘に立って 関東学院
中学校高等学校80年史』
(1999年)より
モーガンの作品
モーガンが日本に残した作品は大きく四つに分類できる。一つ目は、横浜の外国人コミュニティーにおけるいわば公的な施設。アメリカ領事館や根岸競馬場(現存)、クライスト・チャーチ(現存)、ジェネラル・ホスピタル、横浜外国人墓地正門(現存)などである。二つ目はミッション系の学校建築。関東学院専門部校舎(現存)、同中等部校舎(現存)、立教大学予科校舎(現存)、東北学院礼拝堂(現存)などである。三つ目は、オフィスビル。ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行支店やチャータード銀行支店、香港上海銀行支店などである。そして最後が日本に在住する外国人の住宅である。ラフィン邸(現存・現111番館)、ベーリック邸(現存)、デビン邸などである。
モーガンの作品の年譜を見ると、極めて順調に仕事をしていた様子がわかる。震災復興期で新築の需要が多かったこともあるだろうが、ニューヨークでつい最近まで建築家として腕を振るい、フラー社の主任建築家として来日したという肩書きも利いたのだろう。そして、何よりもモーガンの人柄によるところも大きかったのだろう。逝去の際に雑誌『日本建築士』に掲載された追悼文では、アメリカ人特有の性格のうち良いところだけを備え明朗快活な紳士だったと讃えられている。
モーガンの日本での作風は極めて多彩である。古典主義を用いたり、スパニッシュ様式を用いたり、中世城郭風の意匠を用いるなど持ち前の器用さが遺憾なく発揮されている。

5 モーガン自邸
(1931年頃、
藤沢市内に現存)
当館所蔵

6 自邸内でくつろぐ
モーガン
(1937年1月5日撮影)
当館所蔵
モーガン写真帖と自邸
今回、モーガンの御遺族から横浜都市発展記念館に写真帖をはじめとするモーガン関係資料が寄贈された。これらの中にはモーガンの表の顔ではなく、私人としての日常を知
る手がかりが多く含まれており極めて興味深い。中でもスナップ写真の背景として、モーガンの藤沢自邸がしばしば登場する点は注目に値する。
藤沢市大鋸(だいぎり)に1931(昭和6)年頃建設されたモーガンの自邸が現存していることが判明したのは1999(平成11)年のことだった。111番館の改修工事を担当していた建築家菅孝能氏が深い緑の中に埋もれていた自邸を発見した。日本で活躍した外国人建築家の自邸として極めて貴重であることは言うまでもない。当時既に整理回収機構の管理下にあり、開発の危機にあった。その後、地元を中心に保存のための活動が展開され、現在日本ナショナルトラストによる募金活動が展開されている。
自邸はオレンジがかった瓦屋根に白いモルタルの外壁をもつスパニッシュスタイルの洋館である。しかし主室である食堂、居間は続き間になっており、床を板床とするもののいわゆる和室の意匠である。すなわち、柱を露出させた真壁で、長押(なげし)や欄間(らんま)を備え、むろん床(とこ)の間も設けられている。広縁もある。外観と内部のアンバランスさ。これこそがこの住宅の持ち味である。写真帖にはモーガンの私生活のさまざまな場面の背景として自邸が登場する。この写真帖から、外観は一部の増築を除いてほぼ当初のままであることが確認できる。また、モーガンがどのような生活をしていたのかを知る手がかりにもなる。
写真帖などに残されたモーガン夫妻の日常生活の痕跡には、モーガンがなぜ日本に来たのか、なぜ日本に残ったのか、なぜ不可思議な自邸を造ったのか、などなどモーガンをめぐる謎を解き明かす鍵が隠されているように思われるのである。