横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 地中に眠る都市の記憶 ―地下遺構からのメッセージ―
第5号 2005年10月

1 旧居留地48番館

第5号 2005年10月

2 旧居留地91番地塀

発見が相次ぐ居留地建築

横浜の都市形成史を語るうえで、1923(大正12年)の関東大震災は、その後の都市景観を一変させた最大の転換点にあたる。赤煉瓦(れんが)の建築に彩られた華やかなりし明治・大正の都市の姿は、マグニチュード7・9の激震によって、一日にして壊滅した。

しかし、思わぬところから震災前の建造物が発見されることがある。現在の山下町一帯にあたる旧山下居留地の例で言えば、旧48番館の建物の一部および旧91番地の塀が発見され、文化財指定を受けたことは記憶に新しい。

旧48番館の場合は、長い間倉庫として使われていた建物を解体している最中に、煉瓦積みの壁が発見され、1883(明治16)年頃に創建された現存最古の煉瓦造建造物であることが判明した。修理工事を経た現在では、指摘されなければとても明治時代の建築とは分からない外観となっているが(図1)、内部をのぞいてみれば煉瓦積みの壁があらわになっており、横浜では珍しいフランス積みの煉瓦壁が確認できる。

一方、旧91番地の塀は、同地でのマンション建設工事に際して発見されたものである。調査の結果、石積みの腰壁部分の上に煉瓦積みの壁が立ち上がる構造であることが確認され、現地では、その構造が分かるように表面のモルタルを一部剥ぎ取って保存されている(図2)。

旧48番館は神奈川県の指定文化財として、旧91番地塀は横浜市の地域有形文化財として、いずれも文化財指定を受けて保存される運びとなった。しかし、対象が地下遺構となると、なかなか保存のための対策がたてにくい。91番地の場合、敷地内を掘削した際に、広い範囲で煉瓦構造物が確認されたようであるが、残念ながら、それらの記録は残っていない。

第5号 2005年10月

3 山下町51番地で

発見された煉瓦構造物

地中に眠る都市の記憶

山下町51番地

しかし実際には、こうした地下遺構の発見事例は頻繁に報告されている。

たとえば2004(平成16)年2月、山下町51番地での建設工事に際して、煉瓦造の基礎構造物が発見された。工事現場が当館の目と鼻の先にあった関係で、筆者は偶然にも、遺構発見当日に現場を見せてもらうことができた(図3)。

震災直前に同地に建っていたのは、「日英館」と呼ばれていた外資系銀行の建物である。建物に関する情報はわずかしかなかったが、震災後に煉瓦造の建造物が建てられたとは考えにくいため、発見された遺構は「日英館」の建物基礎と判断された。

工事が進行している関係上、当館では出土した煉瓦の一部を採集するにとどまったが、その後、施主である読売新聞社がこの発見に大きな関心を持ち、出土した大量の煉瓦は、竣工した新オフィス(読売横浜ビル)1階ホールのディスプレイとして利用されることとなった。

展示されている煉瓦には、”SHINAGAWA“と刻印された品川白煉瓦株式会社製の耐火煉瓦、そして桜マークの刻印をもつ東京・小菅集治監製の赤煉瓦が含まれている。日英館の竣工は1909(明治42)年頃と思われるが、当時横浜の建設現場では、どのようなルートで煉瓦が供給されたのか、展示されている煉瓦はそのひとつの手がかりとなる。

第5号 2005年10月

4 山下町136番地で

発見されたレンガ面

第5号 2005年10月

5 山下町136番地の

敷地断面

第5号 2005年10月

6 『ジャパン・

ディレクトリー』

(1913年刊)

掲載広告より

第5号 2005年10月

7 山下町136番地からの

出土遺物

地中に眠る都市の記憶

山下町136番地

そして、今回の企画展示「地中に眠る都市の記憶」(企画展示案内参照)の準備中にも、地下遺構発見の知らせが入ってきた。場所は中華街の南門通りに面した山下町136番地で、「横浜媽祖廟(まそびょう)」の建設工事が進められていた。隣接する135番地は、旧清国領事館所在地で、現在は山下町公園として整備されているが、この公園整備の際にも清国領事館に関係すると思われる遺物が採集されている。

現場では、煉瓦を2枚ずつ縦横に組み合わせて敷き詰めた面が検出された(図4)。敷地の断面を見ると、煉瓦を含む大量の瓦礫(がれき)を埋めた上に、1枚厚の煉瓦面が広がっており(図5)、また瓦礫と煉瓦面との間には焼けた土の層が確認できたことから、煉瓦面は震災後のものと判断された。敷き詰められた煉瓦は、モルタルなどを使用せずじかに組み合わされており、中庭あるいは土間のような形式であったと思われる。

震災前の同地に建っていたのは、レストランやバーなどの店舗が入った雑居ビルであり、当時の広告から煉瓦造の建物であったことがわかる(図6)。地中の瓦礫には、おそらくこの建物のものも含まれているであろう。現場で採集した煉瓦からは、明治時代の早い段階から生産されている手抜き成型の煉瓦と、明治後半になって普及する機械成型の煉瓦の二種類が確認され、手抜き成型のものからは分銅型の刻印が見つかった。そのほかの出土遺物として、ジェラール製の有孔煉瓦や熱で溶けたガラス瓶などを採集した(図7)。

現地では、施主である横浜媽祖廟のご理解もあって、幾度か現場確認をする機会を設けていただいたうえ、出土した煉瓦を今回の展示で活用させていただくことになった。また現在建設中の媽祖廟でも、これらの煉瓦を施設の一部に再利用するという。中華街の歴史を遺構・遺物の面からも大事にしたいとする施主の判断の結果である。

近代遺跡という視点

上記のような報告は、今後もますます増えていくと思われる。とくに山下町・山手町といった旧居留地では、大規模な高層建築が建てられていなければ、こうした震災前の煉瓦構造物が今なお地中に眠っていることは十分に考えられる。むろん、発見された地下遺構のすべてを保存することなど現実には不可能であるが、そこで得られる知見を一つずつ積み重ねていくことで、失われた明治・大正の都市の実像がよりリアルに私たちの目の前に現れるはずである。

近代の埋蔵物が、縄文時代の遺跡のように埋蔵文化財として扱われていない現在、そうした「近代遺跡」とも呼べる情報については、いまだ十分な蓄積がない。本展示がその基礎となれば幸いである。

(青木祐介)