- 御開港横浜大絵図二編外国人住宅図
1 御開港横浜大絵図二編
外国人住宅図
当館所蔵

1859年7月1日(安政6年6月2日)横浜が開港され、条約締結国の国民は横浜に居住して貿易に従事することができるようになった。しかし、条約の文言通り神奈川の開港を主張する外国側と、横浜も神奈川の一部だと主張する日本側との対立があり、外国人の居住地が宙に浮いてしまった。
外国商人たちは、すでに日本人商人が集まっていた横浜に住み始めるが、それは文字通り仮住まいであった。翌年の2月頃、外国側も横浜を開港場とすることに同意し、外国商人たちも晴れて本建築に取りかかる。外国人の居住が許されるエリア、すなわち居留地の制度も徐々に整えられていく。1861年末頃には居留地の図面が作成され、土地区画に地番が付けられた。
居留地の町づくりが始まる1860年(万延元年)春頃から、江戸の浮世絵師たちが横浜の街並みや外国人の風俗を描き始める。いわゆる横浜浮世絵である。歌川貞秀はその第一人者だった。本姓は橋本、号は五雲亭あるいは玉蘭斎といい、本図では「玉蘭橋本老父」と称している。
貞秀の計画では、万延元年8月に出版した「御開港横浜之全図」の続編として、街並みを二分し、「外国人乃方を二篇」「自国の方を三篇」として出版する予定であった。二篇が本図に当たることは明らかだが、三篇は残念ながら刊行されなかったようである。
出版の時期は不明だが、1862年1月12日に献堂式を挙げた天主堂が描かれているので、これを遡らないことは明らかである。他方、同年の春から夏にかけて造成された海岸通りが描かれていないので、この辺りが下限となる。両者を勘案して1862年の早い時期の出版と考えて良いであろう。

2 「アメリカ一番シメンス
・ホール住家」と記された
部分(拡大)
左に示したのは「アメリカ一番」と称される商館の部分である。この頃にはすでに地番が付されていたはずで、この地は二番地に当たるのだが、まだ民間に流布していなかったらしく、それ以前に用いられた国籍別商館番号が記されている。
「シメンス」は医師のD・B・シモンズ、「ホール」はこの年4月19日にウォルシュ・ホール商会を設立するフランシス・ホールである。両者は宣教師のヘボンらとともに神奈川の寺院で生活していたが、1860年10月横浜に移り、外国人貸長屋の一角に居住、その後ここに地所を獲得したのであろう。シモンズは1861年春、八二番地に土地を得て医院を開業しているので、この図が描かれた時には実際には居住していなかったはずである。
この図で注目されるのは、「植木畑」の存在である。ホールは貿易商人であるとともに、植物学者でもあった。当然日本の植物を育てていたはずなのである。実地の踏査に基づく精密な描写で知られる貞秀だが、その一端がこんなところにも現れている。
本図が居留地の初期の町づくりの様子を知ることができるかけがえのない史料となっている所以である。
(斎藤多喜夫)