- 五大路子 横浜に映画撮影所ありき
ヨコハマに映画撮影所ありき
〜大正活映と横浜〜
五大路子
横浜出身の五大さんは、横浜に生きた人々を題材に数々の舞台を手がけられてこられました。そんな五大さんにとって、横浜の魅力とはいったい何でしょうか。
横浜というまちは、いつも動いていて、常に新しい命を生みだしている、まるで母胎のような存在だと思います。この母なる大海原に「感性」という釣り糸をたらすと、魅力あるものがたくさん発見できる。そんな感じがいたします。
私が釣り上げることができるのは、ほんの一部ですが、それだけでも私は横浜というまちがはらんできた命の鼓動を感じることができます。芝居をつうじて、その鼓動をもっと感じ取りたい、いま生きている人たちに伝えたい、そんなふうに思っています。
そして、五大さんが「横浜行進曲」という芝居をつくられたのが1999(平成11)年。これは大正時代に横浜にあった映画会社、大正活映
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に集う若者群像を描いた舞台ですが、大正活映を選んだ理由は。
私のふるさと横浜からどんな女性が過去に活躍したのかということにそもそも関心があり、調べていくうちに、まず紅沢葉子
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という女性に出会いました。横浜第一号の映画女優だったということですが、さらに調べていくうちに、紅沢さんが女優として参加した大正活映の撮影所が、現在の元町公園の場所にあったことを知りました。これは私にとってたいへんなおどろきでした。
大正活映をとりあげたのは、その跡地に立ったとき、かつてここに集まっていたであろう若者たちの夢を語る姿が、ありありとよみがえってきたからです。
「横浜行進曲」というタイトルは、当時のハーモニカ楽譜からとっています。歌詞がとても新鮮で、感動しました。「横浜行進曲」というタイトルは、彼らにピッタリでした。
大正活映の映画の特色とは、具体的にどういうものだったのですか。
ハリウッドで俳優経験のあるトーマス栗原
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監督を中心とした大正活映では、それまで人気のあった尾上松之助
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らの歌舞伎出身の俳優による日本映画とは異なった手法で映画づくりを行いました。例えば、据え置かれたカメラの前で俳優が演技するというそれまでのありかたから、クローズアップを用いたりして、人間の自然な表情をとらえたり、海辺を走る女性をいきいきと撮影したり、映画独自の表現をめざしました。
わずか1年半あまりの期間でしたが、横浜で日本最高レベルの映画づくりに挑んでいたのです。

1 大正活映の第1作「アマチュア倶楽部」の由比ヶ浜ロケにて〔絵はがき〕
財団法人川喜多記念映画文化財団所蔵
前列カメラの左がトーマス栗原監督、ひとりおいて紅沢葉子、カメラの右に文芸顧問谷崎潤一郎、となりが主演の葉山三千子、高橋英一(のちの岡田時彦)。
トーマス栗原が日本映画の刷新にそそいだ情熱はその後、どのように引き継がれたのでしょう。
トーマス栗原がアメリカから日本に持ち込んだ最新の技法と、映画にかける強い意志と信念は、大正活映にいた人々、たとえば後年監督となる内田吐夢
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やスター俳優となる岡田時彦
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らによって、広く映画界のすそ野まで伝えられたと思いますし、日本映画の礎石をつくったと思います。
ただ、彼と彼の業績については、横浜ではあまり知られていませんでした。彼が日本映画史のうえに残した偉大な足跡を、もっともっと知らせてゆきたい、そう思います。

2 「蛇性の婬」スチール写真
1921(大正10)年9月封切
財団法人川喜多記念映画文化財団所蔵
右が「真女児(まなご)」役の紅沢葉子。左が「豊雄」役の高橋英一(のちの岡田時彦)。上田秋成「雨月物語」が原作。
最後に五大さんが演じた女優・紅沢葉子について教えてください。
大正活映の映画は残っていませんし、私は紅沢さんには生前会うこともできませんでした。栗原監督の名作「アマチュア倶楽部」や「蛇性の婬」(主演)に出演したあと、帝国キネマ、日活などで脇役をつとめられ、内田吐夢監督の「人生劇場」にも出演しています。戦後は小津安二郎監督の「晩春」、日活の「太陽の季節」「陽のあたる坂道」などにも出ています。
藤沢市に住むお嬢様、三山美都子さんにうかがったことですが、紅沢さんはいつ、どんな役がまわってきても、演技ができるように日々こころがけ、準備をされていたそうです。決して平穏ではなかったけれども、新しい女の姿を目指して情熱を傾けた人生、女優魂を最後まで燃やし続けた人生だったのだろうと思います。
聞き手/平野正裕
どうもありがとうございました。
(1)大正活映
横浜市山下町31番地に本社のあった映画会社。東洋フィルム社の機材を継承して1920(大正9)年創立。文芸顧問に谷崎潤一郎を招き、純映画劇運動の一翼をになった。
(2)紅沢葉子(べにさわようこ)
(1901―1985)
横浜市曙町に生まれる。本名友野はな。平沼高等女学校卒業後、オペラ女優をめざす。大正活映創立を機に横浜にもどり映画界に入る。
(3)トーマス栗原(くりはら)
(1885―1926)
現在の神奈川県秦野市に生まれる。本名栗原喜三郎。ハリウッドでの俳優経験をへて、大正6年ころ帰国。横浜の東洋フィルム社で「成金」等を製作。大正活映で日本映画の刷新に尽力。
(4)尾上松之助(おのえまつのすけ)
(1875―1926)
岡山県生まれ。本名中村鶴三。旅芝居の座長から日本最初の映画スターに。「目玉の松ちゃん」の愛称で生涯千本以上の映画に主演し、映画人気の底辺を広げた。
(5)内田吐夢(うちだとむ)
(1898―1970)
岡山県出身。本名内田常次郎。大正活映入りして俳優に。牧野教育映画、日活と転じて監督となる。「限りなき前進」「人生劇場」「土」、戦後「飢餓海峡」などの名作を残す。
(6)岡田時彦(おかだときひこ)
(1903―1934)
東京・神田生まれ。本名高橋英一。横浜オデヲン座で「名金」をみて感動。映画界への希望を抱き、大正活映に入社。二枚目俳優として活躍する。女優岡田茉莉子(まりこ)の父。
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