横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • シネマのまち・横浜
第4号 2005年2月

1 「横浜館」の門柱と

映画ののぼりが写った

彩色絵はがき

1912(大正元)年9月

横浜開港資料館所蔵

第4号 2005年2月

2 イタリア史劇の大作

「カビリア」

(オデヲン座発行の

絵はがき)

1916(大正5)年

松田集氏所蔵

第4号 2005年2月

3 「眠り男」の題で

封切られた

「カリガリ博士」の

スチール写真

1921(大正10)年

日本公開

松田集氏所蔵

第4号 2005年2月

4 「成金」の一場面

東京国立近代美術館

フィルムセンター所蔵

横浜と映画輸入

横浜と輸入映画を考える上で、忘れてならないのは1911(明治44)年創設のオデヲン座である。山下町の洋画輸入商が経営するオデヲン座については、丸岡澄夫氏の『オデヲン座物語』、『封切館オデヲン座資料集1911―1923』に詳しいが、少なくとも第一次大戦により欧州映画が行き詰まるまで、「カビリア」などの世界に冠たる伊・仏映画の大作の多くはオデヲン座で「封切」られた。その後も世界的に勢力を伸ばしたアメリカ映画の「名金」をはじめとする連続活劇、「カリガリ博士」(オデヲン座では「眠り男」の邦題)などのドイツ表現主義映画を全国に先駆けて上映した。

映画後進国であった日本に輸入される洋画フィルムは、正規のルートでは基本的に1本であったと思われる。しかし、日本の映画人口の拡大によって、洋画は、中古フィルムや複製フィルムも入ってくるようになる。

1920(大正9)年、オデヲン座を経営する平尾商会が輸入し、横浜の大正活映に売り渡された米メトロ社の大作「紅灯祭」(レッド・ランタン)は、上海からの闇ルートで、国際活映が入手した中古品「赤灯籠」と対抗し、警察の上映認可を争うこととなった。国活側は、警察当局に納められていた大活の台本を持ち出して引き写したといわれているが、「映画興行権」の概念がなかった日本では、両者同時上映になった。こうした問題は、関東大震災後外国映画会社の日本支店・日本代理店の設置で姿を消し、他方輸入されるフィルム数も多くなっていった。

震災後、独立経営となったオデヲン座で洋画が封切られる場合、東京・大阪などの一流館と同時公開であった。全国に冠たる「封切」館の地位はなく、複数のフィルムが輸入・配給されるという環境の中で、オデヲン座は封切館として存在したのである。

横浜での劇映画製作

横浜における劇映画の製作は、1915(大正4)年から翌々年にかけて、賑町(現伊勢佐木町)の劇場である喜楽座によって、座付き役者出演で始まったが、それは喜楽座での上映を基本とするものであった。

ひろく市場を見越して製作されたものとしては、1918(大正7)年、山下町の東洋フィルム社が作った「成金」「東洋の夢」が早い。監督はトーマス栗原。数年後、大正活映の監督として「アマチュア倶楽部」「葛飾砂子」などの作品を残し、「純映画劇運動」の旗手として日本映画史に名を残す栗原は、ハリウッドでの俳優経験があった。「トーマス」の名は〈モンタージュ〉の先駆者トーマス・H・インス監督からとったものであった。今日、栗原が残した劇映画フィルムは、わずかに「成金」の冒頭の一巻、33分しか確認されていない。

「純映画劇運動」を迎えるまでの日本映画は、映画監督が「カメラのそばで台本を読み上げる。役者はそれに従って演技する。カメラはある場所に固定されたままで、演技する俳優をフルショットで撮影する」ものであった。映画は「舞台の上で進行するおしばいを記録し、フィルムにかんづめにする」ものにすぎなかったのである(瓜生忠夫『モンタージュ考』)。

「成金」では自称「日本チャップリン」中島洋好が主役「後藤三次」を演じた。トーマス栗原は、現在確認できる33分間を実に220をこえるショットで構成した。クローズアップなどの技法はもちろんのこと、俳優の顔が次第に薄らぎ、消えゆくと同時に俳優が頭の中で思い描いた映像が現れ、それが消えてゆくと再び俳優の顔が現れるという「二重写し」に近い技法や、町なかを全力で疾走する後藤三次を、おそらくは車上より撮影するという、テンポがあり、スピード感あふれる映像を残した。

「成金」は、英文の字幕入りである。栗原は、1918(大正7)年11月、東洋フィルム社のブロツキー支配人とともに「成金」ほかを売り込みに渡米した。結果は不首尾であったようである。日本国内で「成金」が公開されたのは、製作後3年を経過した1921(大正10)年である。

震災後の横浜と映画

関東大震災ののち、映画会社は、資本のうえからも巨大になり、製作から上映までの一貫体制を強めてゆく。映画理論の研究もすすみ、特定個人の体験が、日本映画に飛躍的な刷新をもたらす余地は少なくなっていった。

その後横浜は、劇映画の「舞台」として長く存続している。戦前の「かんかん虫は唄ふ」(吉川英治原作)や「霧笛」(大仏次郎原作)、戦後の石原裕次郎や赤木圭一郎のアクションものなど、「横浜と映画」ときいた場合、まず「舞台」としての横浜に思い当たるであろう。

横浜というまちがもつ価値は、映画やテレビによって今日もなお付加されつつある。しかし、いまや遠い歴史となってしまった、「シネマ・シティ」横浜が輝いていた時代、横浜に足を運ばなくては観ることができなかった「封切」映画や、革新的な映画製作などを紹介し、そこに注がれた人々の情熱を記録として残したい。これが今回の企画展示「シネマ・シティ―横浜と映画―」を企画した動機である。

(横浜開港資料館・平野正裕)