横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 天主堂の誕生 〜教会建築にみる開国と開教〜
第3号 2004年8月

1 創建当時の横浜天主堂

1863年頃撮影

横浜開港資料館所蔵

第3号 2004年8月

2 天主堂内での

大鐘の聖別式

『ル・モンド・

イリュストレ』

1864年1月23日号

横浜開港資料館所蔵

第3号 2004年8月

3 『御開港横浜大絵図二編

外国人住宅図』(部分)

1862年

当館所蔵

第3号 2004年8月

4 『横浜日記』

元治年間

神奈川県立金沢文庫所蔵

創建天主堂のすがた

創建当時の横浜天主堂については、幕末の居留地を写したパノラマ写真(図1)から、そのおおよその姿を知ることができる。

瓦葺きの一見伝統的な日本家屋風であるが、側面には、オジーアーチ(反転曲線をもつアーチ)を用いた縦長の窓がならび、また奥の内陣部分が半円形に飛び出すなど、従来の日本建築にはない要素が入り込んでいる。

当時の仏語新聞に掲載された絵(図2)では、堂内は、列柱によって中央の身廊部と左右の側廊部に分かれており、ヴォールト天井(カマボコ型の曲面天井)が架かっている。細部の描写をそのまま信頼することはできないにせよ、当時の駐在員によるスケッチをもとにした報告であり、平面や天井の形式は実際を反映しているとみてよいだろう。三廊式の平面に加えて最奥部に半円形の内陣をもつという、いわゆるバシリカ式教会堂の形式が整えられていたことがわかる。

ヴォールト天井を架けていることから、建設を指揮したムニク神父は、古典主義様式の教会堂をイメージしていたと想像されるが、実際の建設現場では、日本人大工の技量に委ねる部分が大きかったのであろう。五雲亭貞秀の『外国人住宅図』(図3)に描かれているように、正面には起り(むくり:上に丸くなった曲線)屋根をもった和風の玄関がついており、全体としては、和風とも洋風ともつかない風変わりな建物であったようである。

天主堂=天守閣?

禁教下の創建であったとはいえ、建物正面に天主堂の文字が掲げられていたことからわかるように、宣教師たちの関心は日本人に向いていた。完成した天主堂には、物珍しさから多くの日本人が見物に訪れ、逮捕者まで出る騒ぎが起きている。はじめて目にする天主堂への人びとの好奇心を伝えるエピソードであるが、その関心の一端を、当時の武士が綴った日記からみてみよう。

神奈川県立金沢文庫に、「横浜日記」と題された幕末の日記が所蔵されている。開港当時の横浜の様子を、横浜在勤の武士の目を通して綴ったものであるが、ところどころに描かれたスケッチのひとつに天主堂が登場する(図4)。

ここでは、まるで天守閣のような三層の建物として天主堂が描かれている。パノラマ写真に写された天主堂と比べると、この絵が誇張であることは明らかなのであるが、正面に掲げられた天主堂の文字、屋根の十字架、内陣部分の丸み、そしてオジーアーチの窓とそこにはめられた鎧戸など、創建天主堂の特徴はすべてつかみ取っている。

とくにオジーアーチは隣接する建物にも描かれているが、実際には、天主堂以外にそのような細部をもった建築はなかったはずである。作者にとって、窓のアーチはそれほど印象に残ったということであろう。

また、「異人館」と付記された背後の建物も、天主堂と同じく楼閣風に描かれている。実在した建物かどうかは疑わしいにせよ、こうした楼閣風の建築が洋風建築のイメージとして捉えられていたことは、幕末・明治期の洋風建築の導入過程を考えるうえで、非常に興味深い点である。

第3号 2004年8月

5 正面増築後の

横浜天主堂

慶応年間

横浜開港資料館所蔵

第3号 2004年8月

6 現在のカトリック

山手教会

2004年撮影

様式の流行とともに

創建後、ほどなくして天主堂の正面は大きく改造されるが、このとき和風の玄関が取り払われ、列柱をもった石造の玄関ポーチと鳥居型の鐘塔が増築された(図5)。創建当初とはうってかわって、イオニア式(渦巻き型の柱頭装飾をもつ)の柱がならぶ古代神殿風のポーチは、明らかに古典主義様式に精通した者によるデザインである。

幕末の慶応年間と推定される増築時期から、設計者として、当時居留地で活躍していた建築家クリペの関与が推測されているが(堀勇良『外国人建築家の系譜』)、この増築を機に、天主堂は教会堂にふさわしい堂々たる外観を持つことになった。居留地の街並みを彩る洋風建築として錦絵の題材となるのも、この時期のことである。

しかし、日本が開国した19世紀当時のヨーロッパは、すでにこうしたクラシックスタイルに代わって、中世の様式を範とするゴシック・リヴァイヴァルの時代が到来していた。

やがて、横浜天主堂の建築様式は、同時代の流行を後追いするかたちで、クラシック(古典主義)からゴシックへと移行していく。それはまた、居留地の枠をこえて横浜の街なみに本格的に洋風建築が拡がっていく過程と、軌を一にするものであった。

(青木祐介)