横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 震災を生きぬいた赤レンガ建築 〜木村龍雄旧蔵資料より〜
第2号 2004年4月

横浜市開港記念会館

第2号 2004年4月
第2号 2004年4月

震災を生きぬいた赤レンガ建築

〜木村龍雄旧蔵資料より〜

1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災は、開化の象徴であった煉瓦造建築に甚大な被害をもたらし、その後の都市景観を大きく変える契機となった。

一方で、震災を生き延びた煉瓦造建築もある。その数少ない建物のひとつが、横浜市開港記念会館(国指定重要文化財)である。大正6年竣工の開港記念会館は、関東大震災で大きな被害を受けたにもかかわらず、解体されることなく復旧工事がおこなわれ、現在にその姿を伝えている。

写真は、震災で被災した記念会館の姿を捉えたものである。火災によって屋根が焼け落ち、熱で鉄骨が大きくたわんでしまっているが、かろうじて建物の倒壊は免れた。屋根の崩落により内部は見る影もないが、躯体(くたい)はしっかりと残っている。記念会館が竣工した当時は煉瓦造の耐震技術も進んできており、煉瓦壁の中に水平に埋めこんだ帯鉄を鉄棒で垂直につなぎとめる、いわゆる「定聯鉄(ていれんてつ)構法」が採用されていた。この技術は、一昨年リニューアルした赤レンガ倉庫や、前号で紹介した第二代横浜駅にも用いられている。建物が全壊しなかったのは、その効果とみてよいだろう。

震災後しばらく、記念会館は復旧の目途が立たないまま放置されていた。当時の新聞は荒れるに任せた状態を嘆いて、「何と云ふブザマ」と、手を打たない市の対応を批判している(『横浜貿易新報』大正13年5月2日)。記事によると、内部は馬小屋に使用されていたようである。

ようやく復旧のための予算がついたところで、今度は、区画整理にともなう取り壊しの問題が起きた。拡幅される南仲通りを一直線にするため、道路内に含まれてしまう記念会館を一部取り壊すという議論が起こったのである(同上、大正14年9月26日)。しかし、市当局では「記念すべき同会館を僅かなる道路の屈曲を避けんが為め切り取るは遺憾」との反対意見がまさり、最終的に南仲通1丁目だけを屈曲させることとなった。

こうして記念会館は取り壊しを免れ、残された壁体はそのままに一部鉄筋コンクリートで補強をおこない、内部意匠を一新して復旧された。焼け残った時計塔は、再び都市のランドマークとなり、焼け落ちたドームも平成元年になってようやく再建された。

しかし、このように解体を免れた煉瓦造建築は、残念ながら少ない。当館(元横浜中央電話局)の前身の建物は、竣工を目前にして震災の被害に遭ったが、所有者の逓信省(ていしんしょう)によって復旧計画が立てられながらも、本町通りの拡幅によって解体を余儀なくされた。前号で紹介した第二代横浜駅も、躯体は残存していたが、駅舎の移転計画とともにその姿を消した。

建物を使い続けるのか、あるいは解体してしまうのか。復興の過程では、困難な判断を迫るさまざまな場面があったと想像される。しかし、記念会館の場合、それでも修復して蘇らせたいという関係者の思いが勝った。この決断があったからこそ現在の記念会館があるという事実は、阪神・淡路大震災でも同様の経験をした今、忘れるべきではない。

最後に、これらの写真は、記念会館の復旧を担当した当時の建築課技師木村龍雄の手元にあったものである。この貴重な資料をご寄贈くださった次女の城千代子氏、そして仲介の労をとってくださった鈴木正巳氏にこの場を借りて御礼申し上げます。

(青木祐介)

[寄贈資料の紹介]

平成15年9月から平成16年1月までに新しく寄贈していただいた資料です。

  資 料 名 点数 寄贈者
三井物産横浜支店内装石板 1 物産不動産株式会社
「愛市の花」記念メダル(1934年) 1 芝崎次郎氏
新港埠頭などの写真(1980年代) 25 芝崎次郎氏
関東大震災被害状況写真貼り込み帖 1 斉田三郎氏
鉄道省封筒入り震災写真 25 斉田三郎氏