横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER

昭和はじめのスポーツマン

〜秋田清太郎のスクラップブックより〜

第19号 2013年3月

秋田清太郎

(『洛葉ビジット』No.25、

昭和5年3月)

ハマのスポーツマン秋田清太郎

昭和戦前期は多くのスポーツ施設が整えられた時代である。程ヶ谷カントリークラブ(大正11年)、横浜公園球場(昭和4年)、横浜市児童遊園(昭和4年、保土ヶ谷区)、元町公園プール(昭和5年)とあいついで近代的な運動施設が開かれる。同時に、バスケットボール、バレーボール、スキーなどの新しいスポーツも市民のあいだにひろがり、多彩なスポーツ大会が開催されるようになった。

こういったさまざまなスポーツを楽しんだハマッ子のひとりが秋田清太郎(資料

)である。秋田は明治32(1899)年横浜に生まれ、大正12(1923)年の大学卒業後に父源七が創業した綿布貿易商・秋田商店に入社した。源七は神奈川県の多額納税者のひとりに数えられ、県会議員にも選ばれた人物である。清太郎は家業を手伝うかたわら横浜基督教青年会(YMCA)の体育部委員をつとめて多様なスポーツをたしなみ、指導もおこなった。

秋田清太郎は昭和2(1927)年から、家業と趣味――秋田はスポーツのほか映画製作・鑑賞や切手収集など幅広い趣味を持っていた――にかかわる資料250点を1冊のスクラップブックに貼り込んでいる。昭和19年まで足かけ18年のあいだ作成されたこの資料には、みずからが関与したスポーツ大会のちらし・招待券・新聞雑誌記事が多数含まれており、秋田の「スポーツマン」ぶりをうかがうことができる。

ここでは、現在当館が所蔵するこのスクラップブックから、昭和初期の横浜における市民スポーツのようすを垣間みることにしたい。

YMCAの一員として

秋田が所属していた横浜YMCAは、明治17年に設立された横浜の欧米文化受容の窓口とも言うべき組織である。常盤町一丁目(中区)にあったYMCA会館には室内体育館もあわせて設けられており、欧米の新しいスポーツが紹介された(資料

)。

第19号 2013年3月
第19号 2013年3月

「〔YMCA〕体育部案内」

昭和9年

横浜YMCAの器械体操の様子

(『東京日日新聞神奈川版』昭和5年9月21日付)

たとえば昭和3年5月にYMCAの体育館で開かれた体育実演会では、横木馬・鉄棒・体育ダンス・吊り環などの器械体操が披露され、秋田はそのうち鉄棒の紹介をおこなっている。YMCAの体育館には「欧米最新式の凡(あら)ゆる室内運動器具」が備え付けられていたのである(「〔昭和三年五月YMCA体育実演会〕プログラム)。

昭和4年11月13日に開催された競技実演会では、バレーボール、バスケットボール、卓球、「機械運動」(器械体操)がおこなわれた。参加チームは関東学院・第二中学校などの学校団体のほか、秋田の所属する「(YMCA)ビヂネスメンクラブ」も参加している。競技実演会とあるように各種目は一試合のみで、さまざまなスポーツを一般に紹介することが目的であったようである。

第19号 2013年3月

秋田清太郎の

執筆した「十年一昔」

『横浜青年』

昭和9年1月号附録

YMCAは横浜市民体育大会にも出場している。この大会は、都市生活に運動の必要性が論じられていた大正時代の終わりから横浜市がはじめた一大運動会である。昭和3年11月3日、明治節の祝日におこなわれた第5回体育大会の競技種目は、籠球(バスケットボール)、排球(バレーボール)、卓球、柔道、庭球、剣道の6種目だった。少年部、青年部、一般部、中等学校部、専門部の5部に分かれた市民選手3800人が参加(『東京日日新聞』昭和3年11月4日)、秋田も「Y・M・C・Aビヂネスマン」チームの一員として「排球」に参戦している。

YMCAは冬になるとスキーの指導をおこなった。関東大震災直後のYMCAスキークラブ創設のころ、スキーはまだ危険なスポーツと思われており、「家族と水杯の決心」で参加した人もいたという(秋田清太郎「十年一昔」資料

)。しかしクラブでは毎年講習会を開催してその普及につとめ、また首都圏から比較的近い地域にスキー場が続々と開設されて「婦人小供も年末から降雪を鶴首(かくしゅ)して待つ」昭和9年の黄金時代が到来した、と秋田は記している。昭和初期のスキーの急速な流行ぶりがうかがわれる。

平沼亮三とのかかわり

昭和の横浜でスポーツマンと言えば、平沼亮三の名が思いおこされるだろう。昭和7年のロスアンゼルスオリンピックで日本選手団長に推されたアマチュアスポーツ界の重鎮である。昭和戦前期には横浜市会議長の任にあり、昭和26年から亡くなる34年まで横浜市長を8年間つとめ 「スポーツ市長」と呼ばれた。

実は平沼と20歳年下の秋田清太郎は浅からぬ縁があった。ふたりとも慶応大学の出身で母校の運動部と卒業後もつながりがあり、ともに横浜YMCA体育部にかかわっていた(平沼は顧問)。そしてのちに横浜政界に足を踏み入れた秋田は立憲民政党横浜支部で常任幹事をつとめることになったが、そのときの支部長が平沼だったのである。

昭和5年5月10日、平沼はYMCAの体育大会の開会あいさつで「現代の日本のスポーツは学生のスポーツの観あり、須(すべから)くビジネスメンスのスポーツたらしめよ」と訴えた。昭和初期は六大学野球など学生スポーツが隆盛をきわめた時期だったが、平沼は社会人にもスポーツをひろめることを強く望んでいたのである。このあいさつは『横浜青年』169号(昭和5年5月)に参加記を寄せた秋田によって書きとどめられているが、秋田のように熱心に地道にスポーツの普及にたずさわる者がいてはじめて、平沼の念願は実現されたのである。

※ 掲載図版は全て「秋田清太郎関係スクラップ帳」(当館所蔵)に貼付されている。

[寄贈資料の紹介]

平成24年4月から12月までに寄贈していただいた資料です。(敬称略)

寄贈資料名 点数 寄贈者
 日本貿易博覧会、みなと祭りの横浜市電記念乗車券 8 松本裕志
 震災記念の木盃 3 根岸利恵
 昭和戦前期婦人会関係資料等 27 徳江茂
 横浜市電気局・交通局関係資料 87 樋野禮次郎
 英文タイプライター等 2 池田真
 富岡海水浴場入場券等 5 伊達一雄
 吉田橋の古材で作られた大黒像・恵比寿像 2 磯瑤子
 Y校野球部関連資料 5 花房幸秀