横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 昭和はじめのハマの女学校 ― 受験と学生生活 ―

当館はこのほど、昭和戦前期(12年(1937)〜17年)にフェリス和英女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に在学していた女学生が旧蔵していた資料全44点を入手した。このなかには戦前期の女学校の受験や学園生活をしのばせる資料(試験問題・作文・アルバムなど)が含まれなかなか興味深い資料群であるため、ここでその一部を紹介したい。

高等女学校の受験

この資料の持ち主だった女学生は戦前期に横浜市保土ヶ谷区に住んでいたKさん。彼女は尋常高等小学校(6年制の尋常小学校に続く2年制の小学校)の卒業(昭和12年3月)をひかえ、高等女学校への進学を希望していた。高等小学校卒業後の女子の進路としては、女子師範学校(教員養成)、実業学校(職業・技術教育)などがあったが、高等女学校は女子に対する一般教育を目的としていた教育機関である。明治38年(1905)の高等女学校への進学率は5%未満だったが、大正14年(1925)には15%、昭和15年には20%近くまで上昇、大正から昭和初期にかけて急速に学生数を伸ばしていた。

第18号 2012年12月

資料1 共立女学校の「入学志願者心得」

Kさんは昭和11年の秋ごろから、フェリスのほか共立女学校、捜真女学校、横浜市立高等女学校など横浜の女学校の学校案内を取り寄せて受験先の検討をおこなっていた(資料1、共立女学校の「入学志願者心得」)。さらに、受験が間近にせまった2 月には「模擬試験」も受けたようだ。資料2 は東京・神田の初等教育会なる団体が実施していた模試のちらしである。模試の日程は入試本番の約1ヶ月前の2月14日で、会場は桜木町駅近くの朝日新聞社内にあった朝日講堂であった。ちらしには「神奈川県中等学校入学試験新方針による模擬試験」とあり、入試の「新方針」に対応していることをアピールしている。昭和はじめにはすでに「お受験」が盛んだったのである。

第18号 2012年12月

資料2 初等教育会の「模擬試験」ちらし

受験勉強の甲斐あってかKさんは無事フェリスに合格。3月22日付けで合格通知を受けとり、入学金2円(現在の価値で約4000円)を納めて昭和12年4月から山手で学園生活を開始した。

ピアノのレッスン

Kさんが残した在学中の資料のなかには、授業の課題として提出した作文も含まれており、その内容から戦前期の女学生の日常生活を垣間見ることができる。資料3は「ピアノのレッスン」と題された400字詰め原稿用紙2枚半の作文で、Kさんが3年生のときに提出したものだ。

第18号 2012年12月

資料3 「ピアノのレッスン」と題された作文

火曜日の放課後、お道具もかたずけないでピアノのレツスンにかけつける私だ。今日も又、大急ぎでお部屋の前に来てこつこつとノツクしながら中をのぞくと、ミス・スエットナムが目で「お入りなさい」をしていらつしやるのでそつと中に入つた。中では未だ四年のMさんとHさんがドエットをしていらつしやる。(中略)ひき終ると先生は、英語で色々な事をおつしやってからMさんに、「この曲は好きですか」とお聞きになる。

第18号 2012年12月

資料4 フェリス和英女学校

卒業時の集合写真

この作文の記述から、Kさんは放課後外国人女性からピアノのレッスンを英語でうけていたことがわかる。戦前期、授業以外に「稽古事」をしていた女学生は7割近くいたといい、その代表的なものは、茶道、華道、ピアノだった。とくにピアノはモダンで西洋化された新中間層の家庭の象徴として人気が高かったようだ。ピアノのレッスンは女学校によっては「課外授業」としてカリキュラムに含まれていた。たとえば、Kさんの旧蔵資料のなかの「捜真女学校学則」には「規定以外ノ時間ニ於テ特ニ音楽又ハタイプライターノ教授ヲ望ム者ハ左ノ授業料ヲ納ムベシ」として「一、ピアノ授業料 一週一回 毎月金 四円 ピアノ使用料 毎月 金 二円」との規定がみられる。Kさんの父は現役の陸軍少佐なのだが、娘は「モダン」なライフスタイルに憧れるところがあったのかもしれない。

いずれにせよ、本資料群は昭和はじめの受験や学生生活の具体的な様相が判明する資料群として貴重なものと言える。この一部については、2013年1月29日より当館のコーナー展にて公開する予定である。

参考文献

稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書、2007年