横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 維新の起業家・ 高島嘉右衛門 (かえもん)
第18号 2012年12月

図1

高島嘉右衛門

高島家所蔵・

横浜開港資料館保管

第18号 2012年12月

今回の常設展示室コーナー展では、

「維新の起業家・高島嘉右衛門」と題して、

横浜のまちづくりに大きな足跡を残した

高島嘉右衛門を取り上げている。

ここでは、彼が関わった多岐にわたる事業のなかから、

鉄道用地の埋立てとガス事業を中心に、

展示資料のなかからいくつか紹介したい。

請負商としての眼力

『高島翁言行録』(1908年)をはじめとする伝記が語るところによると、天保3(1832)年生まれの高島嘉右衛門(

図1

)が、材木商を営んでいた江戸を離れて横浜に活動の舞台を移すのは、開港と同時の安政6(1859)年6月2日(旧暦:以下、明治5年までの年代表記は旧暦に拠っている)のこと。当初は本町4丁目で肥前焼の販売店を開いていたが、やがて金貨密売のかどにより投獄され、慶応元(1865)年まで牢獄生活を強いられる。

第18号 2012年12月

図2

高島家に伝わる釜

高島家所蔵・

横浜開港資料館保管

請負商として頭角を現すのは、出獄後、高島嘉右衛門と名前をあらためてからのことである。建設ラッシュにわく開港場横浜は、材木商としての出自をもつ高島にとって、まさにうってつけの現場であった。その出自にまつわるエピソードとしてよく語られるのが、安政2(1855)年に江戸で発生した大地震を予知するきっかけとなった釜の話である。火の気もないのに家の釜がひとりでに鳴りだしたことを家人から聞かされた高島が易を立てたところ、「火」を表わす卦が得られたため、江戸に大火があると予測して事前に材木を買い占めたという。

このときに鳴ったとされる釜が、現在も高島家には伝えられている(

図2

)。のちに易聖として名を馳せる高島嘉右衛門の「易」の原点として伝記が伝えるエピソードであるが、ことの真偽はともかくも、こうした眼力をもつ高島だからこそ、鉄道やガス事業といった文明開化のまちづくりに次々と挑んでいったといえる。何の素地もなしに、大土木工事に飛び込んだわけではないのである。

鉄道開通を支えた埋立事業

京浜間の鉄道敷設事業は、イギリス人技師モレルの設計・監督のもと、明治3(1870)年に工事がスタートする。神奈川から横浜にかけては、神奈川台を切り崩し、海中に築堤を設けて野毛山下へと向かうルートが設定された。高島嘉右衛門は、この築堤の埋立てを晴天140日以内という厳しい条件で請負い、明治4(1871)年2月に完成させた。埋立地のうち線路用地と道路用地以外は高島の私有地となり、彼の名前を取って「高島町」と名づけられた。

図3

は現在の京急線神奈川駅付近で、切り崩された神奈川台に線路が敷かれている様子が撮影されている。右手の森が本覚寺で、中央に写っている陸橋が東海道を結ぶ青木橋である。青木橋の先には、高島嘉右衛門が埋め立てた弓状の築堤が伸びているのが見える。

第18号 2012年12月
第18号 2012年12月

図3

工事中の鉄道用地

『ファー・イースト』1871年10月2日号

横浜開港資料館所蔵

図4

建設中の横浜停車場

『ファー・イースト』1871年10月2日号

横浜開港資料館所蔵

この築堤の先に初代の横浜停車場が建設されるのであるが、建設がすすむ停車場の構内を捉えたものが、

図4

である。右奥の2棟並んだ2階建ての建物が、明治4(1871)年9月に完成した木骨石造の駅舎で、かつて高島と組んでイギリス公使館を手がけた建築家ブリジェンスが設計した。新橋駅と同じデザインの双子の駅舎である。この駅舎に隣接して建つのが客車庫で、少し離れた左手にはカマボコ型屋根の機関車庫が見える。その間に組まれている足場は荷物庫の建設用であろう。

鉄道施設に目を奪われがちだが、この写真で手前に大きく写っている2階建ての洋風建築が、高島嘉右衛門が興した横浜瓦斯(ガス)会社の施設である。写っている建物はお雇い外国人技師の官舎で、写真では見えないが、画面右端の崖下ではガス製造所とガス溜の建設が進んでいたはずである。

写真が物語るように、この時期、高島嘉右衛門が関わった事業の大規模な建築・土木工事が立て続けに進行していた。

写されたガス会社

高島嘉右衛門の立ち上げた横浜瓦斯会社(当初は日本社中と称した)が、ドイツのシュルツェ=ライス商会との競争に打ち勝って、外国人居留地でのガス灯設置の認可を得るのは、明治4(1871)年1月のこと。高島は上海でガス事業の経験をもつフランス人技師プレグランを招いて工場建設とガス管の敷設を進め、明治5(1872)年9月、馬車道から本町通りにかけての日本人市街に最初のガス灯が点灯した。外国人居留地へは、少し遅れて明治7(1874)年に点灯している。

第18号 2012年12月

図5

横浜瓦斯会社全景

明治7(1874)年頃 当館所蔵

図5

は、明治7(1874)年頃の撮影と思われるパノラマ写真の一部で、稼働を始めたばかりのガス会社の工場が克明に写されている。煉瓦造の煙突をもつ石造建築がガス製造所で、手前の円形構造物がガス溜である。工場の施設の遠方には、高島が埋め立てた鉄道用地が広がっているが、この時点ではまだ建物の姿はない。

工場でつくられたガスは、地中に敷設されたガス管を通して、市街地に立てられたガス灯へと送られた。なお、このときにグラスゴーから輸入されたガス管の一部が、跡地にあたる市立本町小学校のグランドから出土しており、当館中庭に展示されている。

図5

ではトリミングされて見ることができないが、横浜瓦斯会社の敷地の右となりは、高島が創設した洋学校(通称高島学校)の校地であった。この写真が撮影されたときにはすでに火災で校舎群は失われており、資材が積まれた跡地しか写されていないが、開港場横浜の周縁ともいえる地域に、鉄道の停車場、ガス製造工場、洋学校と、文明開化をになう諸施設が次々と建てられていった状況を示した貴重な写真である。

第18号 2012年12月

図6

望欣台の碑

隠棲の地

伝記によると、明治9(1876)年、高島嘉右衛門は実業界からの引退を決意し、自らが埋め立てた鉄道用地を見下ろす神奈川の高台(現・神奈川区高島台)に山荘を構えて隠棲し、易の研究に打ち込んだとされる。横浜瓦斯会社、高島学校のいずれもが創業後ほどなく経営に行き詰まり、経営を手放した高島にとっては、いったん身を引く機会と判断したのであろう。

高島台の地からは、入り海を隔てて遠くに横浜停車場、ひいては横浜の市街地を望むことができた。高島は自邸に設けられた広大な庭園を一般にも公開し、この眺望を提供していた。そうすることで、文明開化の都市に抱いた夢を人々と共有したかったのではないか。現在はかつてのような眺望は得られないが、高島邸内に建てられていた望欣台の碑(

図6

)が高島山公園に移設され、彼の偉業を静かに称えている。

(青木祐介)