- 昭和はじめの横浜中央電話局 〜絵葉書・給与明細・回想談〜
当館の建物は昭和4年(1929)に横浜中央電話局(後に横浜市外電話局)の局舎として建築された歴史的建造物である。当館は電話局時代の原資料を所蔵していなかったが、昨年新潟市にお住まいの阿部邦夫さんより、新築移転時に中央電話局が発行した記念絵葉書(昭和4年12月17日付)をご寄贈いただいた。昭和初期の電話局で働いていた方の資料・回想談とあわせて紹介したい。


1 横浜中央電話局の外観
(阿部邦夫氏寄贈、当館蔵)
2 横浜中央電話局の内部
(阿部邦夫氏寄贈、当館蔵)
1は現在の大さん橋入口交差点の斜向いから電話局を撮影したもの。建物の外観は現在とほとんど変わりがない。2は局舎内部の設備のうち、「女子更員休憩室」(左)、「女子更員洗面所」(中央)、「女子更員宿直室廊下」(右)を写している。添付の「横浜中央電話局建築概要」によるとこれら女性用の休憩設備は、現在常設展示室になっている4階に配置されていたことがわかる。明治23年(1890)の開局当時電話交換手は全員男性だったが、女性の社会進出を背景に昭和初期の電話交換業務は女性によって担われるようになっていた。絵葉書にみえる清潔感のある休憩設備からは、働く女性(「職業婦人」)に対する労働環境の配慮をうかがうことができる。
電話局に勤める女性職員の待遇は実際どのようなものだったのだろうか。昭和10年代に横浜中央電話局料金課に勤務していた野村一枝さん(大正5年生まれ)の給与明細が神奈川県立公文書館に残っていた(「野村征子(まさこ)氏寄贈資料」)。これによると、昭和16年2月分の俸給は45円88銭だが、愛国貯金(10円)、規約貯金(5円)、保険(3円50銭)、共済組合(2円97銭)、報国会(30銭)、週報(20銭)、茶代(10銭)等を差し引かれ、実際の支給額は22円16銭だった(請求記号2201000481「〔給与袋〕」)。また、昭和16年頃電話局に交換手として勤めていた土屋節子さん(大正15年生まれ、中区柏葉在住)によると、給料は18円で「(小学校)高等科にきた求人のなかで一番お給料がよかった」という。
昭和6年の職業婦人の月収は30円前後(横浜市社会課『昭和六年社会事情調査』1932年)、昭和12〜13年の官公吏(公務員)の平均実収入は90円程度(内閣統計局『家計調査報告』1939年)であり、昭和16年前後のインフレの急進と明細にもみられる戦時下特有の天引きを考慮すると、この支給額だけでは生活は楽なものではなかっただろう。とはいえ土屋さんは「5円をお小遣い」にして、オデヲン座で映画を見たことやあんみつを食べに行ったことを記憶されている。当館の建物のなかで仕事をしていた女性たちの、70年前の生活の一斑である。
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