- 都市の人口規模ランキングから見る 「六大都市」の成立
「東京−神戸・昭和の東海道」展より
都市の人口規模ランキングから見る
「六大都市」の成立
企画展「東京―神戸・昭和の東海道〜『六大都市』をめぐる。」(4月16日〜6月26日)では、当館で所蔵する地理資料(都市地図や名所絵葉書、観光旅行案内など)をもとに、昭和の初期から30年代くらいまでの「六大都市」(東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸)の姿を紹介しました。この頁では、同展の導入部に展示した都市の人口順位表をもとに、「六大都市」というグループの成り立ちについて改めて解説したいと思います。
「六大都市」の時代
表1は、明治から平成まで、過去130年間にわたって、日本における都市の人口上位12位までの変化を十年ごとに示したものです(人口の単位は、都市=「市」という前提にもとづき、市町村の「市」としています)。明治時代の前半は、江戸時代に「三都」と呼ばれた東京(江戸)・大阪・京都が依然として抜きん出ており、名古屋・広島・金沢・和歌山などのかつての大藩の城下町がそれに続いていたことがわかります。新興の港湾都市として発達した横浜・神戸も名を連ねますが、まだそれらに及びません。
表1 都市の人口規模と順位の変化
注1)
1900年および1910年は数値が得られないため、それぞれ1898年および1908年の数値で代用した。
注2)
市制制定(1889年)以前は、郡区町村編制法(1878年)の「区」を用い、東京・京都・大阪については複数の区の集合体をもって一個の都市と見なした。また、東京市は1943年に東京府と合併して東京都となるが、「都」は府県に相当する行政単位なので、都内の特別区(23区、旧東京市)をもって都市東京と見なした。
明治時代の後半になりますと、神戸・横浜が人口を急増させて、東京・大阪・京都・名古屋をあわせた六つが上位を独占するようになります。そして、大正時代(1910年代)には7位以下との差が開き、「六大都市」という呼び方が定着しました。近代化の進んだこれらの都市に多くの人口が引き寄せられたのです。名古屋が他の旧大型城下町のように相対的な地位を下げることなく、「六大都市」に入ることができたのは、東海道本線(鉄道)という「近代の東海道」に位置したことも大きく関係しているでしょう。
図1は表1をもとに、これら「六大都市」と、そのすぐ下位にあった主要都市の広島・長崎・金沢・福岡・札幌・仙台の計12都市について、数値をグラフ化したものです。グラフを見るとよくわかりますが、「六大都市」が人口規模において国内の他都市より卓越する時代が、大正時代(1910年代)から昭和の高度成長期(1960年代)くらいまで続きました。そして、単に人口が多いだけでなく、行政や産業、文化などの諸側面で、「六大都市」は日本を代表する大都市として位置づけられたのです。
ちなみに、その中でも東京の人口規模が常に圧倒的であるのは一目瞭然ですが、大阪市が昭和初期に一時的に首位になります。それは、郊外化し人口の急増した周辺町村の編入が大阪市では大正期に実現したのに対し、東京市は関東大震災で大きな被害を受け、市域拡張が大きく遅れたためです。
図1 六大都市と主要都市の人口の推移
「六大都市」から政令市へ
しかし、1970年代以降は「広域中心都市」と呼ばれる札幌・仙台・広島・福岡の人口が増大し、とりわけ札幌と福岡の伸びが大きく、京都や神戸と並び、あるいは追い抜くまでになりました。これらの都市には、各地方(ブロック)の拠点となる、官公庁の出先機関や企業の支社・支店が集中したのです。また、図1にはありませんが、川崎は戦時中から高度成長期にかけて工業都市として発展し、近年では東京のベッドタウンとなって大きく人口を伸ばしました。
もう一つ注目されるのは、横浜の人口の激増です。横浜市は昭和50年代前半に大阪市を抜いて2位となります。しかし、これは川崎と同様に東京のベッドタウン化が進展したことが最大の要因です。人口の多くが昼間は市域外に流出してしまい、都市としての諸機能が必ずしも大阪を上回ったわけではありません。
こうして「六大都市」というグループ分けは次第に意味を成さなくなりました。そして、日本の大都市を指して、「十大都市」や「百万都市」という言い方をすることが多くなり、さらには「政令指定都市」という分類を用いるようになったのです。
一方、近年については、一つの「市」が必ずしも一個の自立した都市であるとは限らず、「市」単位の人口(夜間人口)によって都市を比較することが、必ずしも有効でないことも付け加えておかねばなりません。
【補足】地形図にみる都市の拡張
企画展では六大都市の地形図を、(1)明治期・(2)昭和10年頃(戦前期)・(3)昭和40年頃(高度成長期)の三つの時期について、原寸大のパネルで展示しました。
本文の末尾で触れたこととも関係しますが、今日では実際の都市の領域(市街地=人口密集地)と「市」の行政区域が一致しないことは少なくありません。しかし、明治大正期から昭和前期までは、都市の人口が増大して市街地が膨張すると、それに対応して、行政体である「市」の区域も周辺の町村を編入しながら拡張していきました。
展示した地形図からは、都市の周辺で農地が区画整理されてやがて宅地化し、あるいは鉄道や道路が敷設されるなどして景観が著しく変化し、市域に組み込まれていく様子を読み取ることができました。
ここにはそのうち、変化の特に明瞭な名古屋と京都の地形
図の一部を抜き出し掲載しました。
図2 名古屋南部の地形図(部分)
明治23(1890)年頃、
昭和10(1935)年頃、
昭和39(1964)年。
名古屋市は明治22年に市制施行、明治40年と大正10年、昭和30年に大規模な市域拡張を行った。赤線は市境線。
【基図:5万分1 旧版地形図「名古屋南部」を約30%縮小】
図3 京都東北部の地形図(部分)
明治43(1910)年頃、
昭和10(1935)年頃、
昭和40(1965)年頃。
京都市は明治22年に市制施行、大正7年と昭和6年、23-25年に大規模な市域拡張を行った。赤線は市境線。
【基図:5万分1 旧版地形図「京都東北部」を約62%縮小】
(岡田 直)