- カメラがとらえた 昭和30年頃の横浜 〜クルマのある風景〜
戦災復興から高度経済成長へと移りゆく時代にあった、昭和30年頃の横浜。
今回の常設展示室コーナー展では、
横浜開港資料館が所蔵する広瀬始親氏撮影写真をもとに、
写真パネル展「カメラがとらえた昭和30年頃の横浜〜クルマのある風景〜」
を開催している。
いまだ戦争の影を残しながらも、
新たな都市発展へと歩みを進めつつある横浜の姿を捉えた
広瀬写真のなかから、
クルマのある風景をピックアップして、
昭和30年前後の横浜をふり返ってみたい。
Aナンバーがあふれるハマの街
昭和27年(1952)のサンフランシスコ講和条約をきっかけに、進駐軍によって接収された施設の解除が始まっていたが、当時の横浜には多くのアメリカ兵がその家族とともに暮らしており、街にはアメリカ軍のプライベート車であることを示す「A」ナンバーを付けたアメリカ車が行き交っていた。広瀬写真には、元町や山手を中心に「神3A」で始まるナンバープレートを付けたアメリカ車が数多く写されている(
写真1
)。
オールズモビル、シボレー、フォード、ビュイック、ポンティアックなどそのブランドは多彩であり、なかでも客船を迎えた大桟橋にずらりと見送りのアメリカ車がならぶ景観は圧巻であった。広瀬氏は客船が港に停泊するたびに大桟橋に撮影に赴き、その様子を「港の見送り 外車だけ」と写真メモに記している(
表紙、写真2
)。


1
外車がならぶ元町
昭和30年(1955)5月
元町3丁目の泉屋(現・ダニエル元町)前に停められた
オールズモビル。
元町は外国人が買い物をするショッピング街として賑わった。
2
港の見送り 外車だけ
昭和29年(1954)3月
広瀬氏が記した撮影メモには何度もこのタイトルが登場する。
たちあがる国内の自動車生産
国内の自動車産業に目を向けると、終戦後しばらくはGHQによる製造規制を受けていたものの、昭和22年(1947)には乗用車の製造許可が下り、20年代後半になると各メーカーの自動車生産は勢いづいていった。
昭和28年(1953)には、国産化を前提にヨーロッパのメーカーと技術提携して製造されたルノー(日野ヂーゼル、
写真3
)、オースチン(日産自動車)、ヒルマンミンクス(いすゞ自動車)が立て続けに登場し、ヨーロッパ名車の国産ブランドとして話題を呼んだ。日産自動車の鶴見工場では、同年5月にイギリスのオースチン社と提携して製造した「オースチンA40」が完成している。


3
雨の大桟橋
昭和31年(1956)6月
雨の大桟橋を走るのは、日野ヂーゼル工業(現・日野自動車)がフランスのルノー公団と技術提携して生産をはじめたルノー。
4
国道一号から高島台をのぞむ
昭和33年(1958)12月
先頭を走っているのがトヨペット・クラウン。トヨペットはトヨタの小型車に付けられた愛称。
そして昭和30年代に入ると、クラウン(トヨタ自動車、昭和30年)、スカイライン(富士精密工業、昭和32年)、スバル360(富士重工、昭和33年)、ブルーバード(日産自動車、昭和34年)など各社の代表車種が次々と誕生する。
しかし、当時はマイカーのある暮らしなどとても庶民には手の届かないものであり、乗用車の需要はタクシーなどの商用車が中心であった。自家用車が一般家庭に普及し、カラーテレビ・クーラーとともに「新・三種の神器(3C)」と称されるようになるのは、昭和40年代以降のことである。
広瀬氏は幹線道路にカメラを固定して、定点観測的に多彩な自動車が行き交うさまを撮影しているが(
写真4
)、マイカー時代が到来する以前の、国内自動車メーカーがようやく自社ブランドを確立させ、国産乗用車の普及が端緒についた時代の貴重な記録といえる。
市民の足、市電
マイカーが一般的でない昭和30年代、市民の足は市街地を縦横に走っている市電(路面電車)であった。明治37年(1904)の開業以来、都市交通の主要手段であった路面電車は、昭和30年(1955)に根岸線(間門〜八幡橋)、昭和31年(1956)に井土ヶ谷線(保土ヶ谷橋〜通町一丁目)があらたに開通し、戦後の最盛期を迎えている。高島町から桜木町にかけての直線道路には何系統もの市電がつらなって運行し、とくに歩行者と自動車と市電が交錯する桜木町駅前は、車の乗り入れが難しい場所だったと広瀬氏は記録している(
写真5
)。広瀬写真の各所で登場する街角の市電は、かつては市民のくらしとともに市電があったことを教えてくれる。


5
桜木町駅前
昭和29年(1954)1月
当時もっとも交通量が多かった桜木町駅前。右上が旧国鉄
桜木町駅。多くの路線が通る桜木町駅は市電を利用する
人々の起点であった。
6
行商の八百屋
昭和31年(1956)6月
オート三輪で売りにくる八百屋。
広瀬氏が当時住んでいた県営藤棚住宅での風景。
やがて昭和40年代に入ると、国電根岸線の開通(昭和39年)や自家用車の普及などの影響を受けて路線の廃止が進み、昭和47年(1972)には最後の路線が廃止された。張りめぐらされていた架線は撤去され、横浜の道路は広い空が見上げられるようになった。
参考文献:
『別冊一億人の昭和史 第一九号昭和自動車史』(毎日新聞社、1979年)
小磯勝直『くるま昭和史物語』(JAF出版社、1988年)
写真1〜6
:
広瀬始親氏撮影寄贈・横浜開港資料館所蔵
(青木祐介)