横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 模倣ジェラール瓦のつくり手たち

今回、展覧会にあわせて二種の横浜に関する(白)地図を新たに製作しましたが、そのうちのひとつがここで紹介する地図です。

「横浜市三千分一地形図」(横浜開港資料館蔵)

のうち「新港町」(昭和6年測図)「山下町」(昭和7年測図)「新山下」(同)をもとに描き起こしたもので、原図はインターネット上でも公開されています。

この「横浜市三千分一地形図」は従来から展示の参考図版等で利用されていますが、分割されている地図をつなぎあわせて利用する場合、地図の色味が変わったり継いだ部分の道等がずれるなど、少々使いにくい面がありました。今回は原図を丁寧にリライト(ただし一部描き起こしていない要素もあります)して貼り合わせ、野毛山・新港埠頭・山下公園・吉浜橋・長者町一丁目・伊勢佐木町等が含まれる横浜の中心部を再現、これに各種文献からデパート・映画館・ダンスホール等、モダン都市の商業・娯楽施設の位置を落としこみました。

会場でパネルに引き伸ばして展示しているほか、

特別展関連刊行物『モダン横濱案内』

の巻末にも付録として収載しています。今後インターネット上で展開する「横浜歴史情報マップ」など、当館のさまざまな事業のベースマップとして利用していく予定です。

第15号 2011年1月

5

横浜市中心部地図

特別展「モダン横濱案内」にあわせ、昭和はじめの横浜の街の様子を知る方々から聞き取り調査をおこないました。そのなかから印象深い談話を二話ご紹介します。

*お話をうかがったときの口調を生かしつつも、文意をわかりやすくするために表現を改めた箇所があります。

第15号 2011年1月
第15号 2011年1月

6

広瀬始親さん

横浜のダンス教習所の思い出

ダンスの教習所の広さは、せいぜいあって二十畳くらい。伴奏は蓄音器でね、先生が三、四人いて教えてくれます。教習所は町内ごとくらいありました。わたしは三ヶ月分だけ払ってね、習いにいきました。それで三ヶ月で辞めようと思ったら「広瀬君ね、暇だったら是非毎日来てくれ」と。なぜかというと、その当時良家の女の子はね、家からなかなか出してくれないの。だからね、みんなお花の習い事にことづけて、活け方を上の空で聞いて、それからお花もってダンス教習所へ遊びにきて踊ってんの。臨時教習所ということでなんぼか出せばね、踊らせてくれた。それでわたしはまだ二十五、六でしょう。それでダンスがうまいとね、女性のお客さんがたくさん来る。だからわたしがいないと教習所は営業に差し支えるの。わたしの店が住吉町二丁目、教習所が一丁目にあって裏通りが通じていて近かったからちょくちょく行きました。

それから(横浜)フロリダのダンサーなんかと踊るとね、「先生ですか、ありがとうございます」と言ってチケット取ってくれない。あんまりね、きちっとした難しいステップを踊る人がいないからたまにくると先生扱い。そのくらいね、一生懸命やりましたよ、踊りは。

広瀬始親

(もとちか)さん

大正4年生まれ。昭和4年に生糸関連の貿易会社広瀬商店につとめ、昭和15年頃、横浜のダンス教習所・ダンスホールに通った。現在港南区在住。

第15号 2011年1月
第15号 2011年1月

7

ホテルニューグランド

前の送迎自動車

(絵葉書、部分)

昭和初期 当館蔵

伊勢佐木までタクシーで

うちがね、兄弟四人男なんです。でね、谷戸坂からタクシーでおやじとおふくろと伊勢佐木町まで行くわけですよ。そのころのタクシーは六人乗れるんです。運転席の座席の後ろにね、折りたたみの椅子が入っているわけ。それを出して、兄貴ふたり座ってね。おやじとおふくろとわたしと生まれたてのチビと四人後ろの席に座って、向かい合わせで座るわけですよ。それでだいたい伊勢佐木まで50銭なんですね。それをね、値切って30銭にするの。なかには「じゃあ30銭で行きましょう」なんて言ってくれるタクシーがあってね。

伊勢佐木町の通りはね、空車はなかには入れないんだけど、お客が乗っている車は中に通してくれたんですよ。だからタクシーの運転手連中は、空車でお客を伊勢佐木町に拾いに入りたいんだけれど入れないもんだから、あそこの手前の橋んところでね「ちょっとお客さん乗ってえ」なんてね、わざわざお客ただで乗っけて入っていくタクシーもあったんです。

天川勝三郎

さん

昭和2年生まれ。戦前から現在まで谷戸坂(中区山手町)に居住。元街小学校出身。現山手まちづくり推進会議代表幹事。