- 遠藤於菟のトランクを開いて 〜青春の彷徨 (鈴木智恵子)

1 遠藤於菟
『実業之横浜』
第3巻第6号より
横浜市中央図書館所蔵
遠藤於菟
(おと)
のトランクを開いて
―青春の彷徨
日本文芸家協会会員
鈴木智恵子
■遠藤於菟のトランク
日本大通りの旧三井物産横浜支店ビルや旧生糸検査所の建築で、横浜に最も縁が深い建築家として知られる遠藤於菟。
O.E.と丁寧にイニシャルが描かれた彼のトランクを初めて見たのは、磯子の遠藤於菟のかつての隠居所だった。太平洋戦争の戦時下、厳しい建築制限の中で建てられた小さな家。建具のレールにさえ金属は使えず、竹ひごを使用したという質素さ。隠居所とはいえ、建築家の家とも思えず、「今は私の趣味の鎌倉彫のアトリエにしています」という孫娘のSさんの明るい声を背に、一瞬うろたえた。
愛用の皮製のトランクは二つ。イニシャルの無い方は小さな箪笥
のようなつくりで、船旅の昔は、こんなトランクをもって旅したのかと思われるほどの大きさだった。明治・大正・昭和の時代に、こんなトランクを持って旅立てたことは、選ばれた人であった証だろう。後で、横浜・山手の「外交官の家」(旧内田定槌氏邸)で、同じようなトランクを見た。外交官の家にふさわしく屋根裏部屋はトランクルームで、床にはトランクの上げ下げのための穴まで開けられていた。


2 横浜三井物産ビル
2009年撮影
3 遠藤於菟のトランク
鈴木智恵子氏寄贈・当館所蔵
明治35(1902)年の春から夏にかけて、遠藤於菟は横浜正金銀行技師として、天津支店新築のため、出張している。大きなトランクは、この時に携行したものだろうか。
今も馬車道通りに威容を誇る横浜正金銀行本店(現、
神奈川県立歴史博物館
)も建設中で、於菟は設計者妻木頼黄の元で監督として多忙な日々を送っていた。横浜正金銀行は、貿易金融と外国為替の銀行で、その本店は日本の表玄関、港都横浜の顔となる建築であった。
翌36年、遠藤於菟設計の横浜正金銀行天津支店竣工。本店建築の合間を縫った天津行きは慌しかったが、希望に満ちた旅であったに違いない。
■笈
(おい)
を背負いて郷関を出づ
於菟のイニシャル入りのトランクはご厚意で有難く頂戴した。それから二十年余り、於菟のトランクと共に暮らし、つくづくトランクは於菟の人生の象徴のようだと思った。
遠藤於菟の人生は、”故郷出奔”という旅から始まる。横浜開港の三年前、山深い信州・木曽福島の下級武士の次男に生まれた遠藤於菟にとって、東京での勉学は立身出世への唯一の手段だった。江戸幕府から明治政府へと政権が変わり、混沌とする世に、「男児志を立てて郷関を出づ」が流行り、多くの若者が、まさに「笈を背負いて、いづれの日にか故郷に錦を飾らん」思いで、東京を目指した。
行き先は銀座4丁目4番地の吉村忠道宅である。吉村は郷里の先輩で、於菟の父と同じく、木曽福島の代官山村氏の家臣だったが、明治12、13年頃に、新天地を求めて東京に転居した。それ以後、上京する同郷の人々は彼を頼りにした。吉村忠道はそうした人々を家に置いて親身に世話した情の厚い人だった。遠藤於菟が苦学生として身を寄せた吉村家には、遠藤於菟より六歳年下のまだ幼い少年、島崎藤村の姿もあった。忠道は藤村の次兄広助の知人である。ちなみに藤村の姉は木曽福島の名家高瀬家に嫁いでいた。
遠藤於菟は、この頃のことを何も語っていないが、島崎藤村は『をさなものがたり』の中で、吉村忠道を「小父さん」と呼び、僅かにこう語っている。「小父さんのところへ来て身を寄せる同郷の青年も随分ありました。その中には、遠藤さんのやうな、後に建築家として身を立てた人もありました」と。
故郷の小学校を卒業後、上京し、明治17(1884)年、十八歳にて東京外国語学校に入学するまでの於菟の青春。少年から青年へと向かう一番多感な時期は、今も空白のままである。
■新たな於菟の篆刻
(てんこく)
作品との出合い
ところが、遠藤於菟の篆刻作品との思いがけない出合いが、故郷木曽福島の人々を結ぶ縁を仄かに浮かび上がらせることになった。
東京の遠藤智夫家には、遠藤於菟が篆刻した竹根の蔵書印が伝わっている。智夫氏の祖父遠藤直一郎氏の蔵書印であり、遠藤於菟の為書付きの印譜が付いている。遠藤智夫氏は、我が国初の本格的な英和辞書『英和対訳袖珍辞書』を研究している英学史研究家である。姓は同じなので親戚かもしれないが、いま遠藤両家の間に親交はなく、確証はない。
遠藤於菟は晩年、篆刻を趣味とした。先の磯子の隠居所でも篆刻を楽しんだ。日本建築学会の「建築学会図書之章」の印は於菟の作品である。愛用の篆刻用具と印譜も大切に保管され、今に伝わっている。様々な印は乞われてつくったり、贈ったりというものだろう。遠藤智夫家の蔵書印もその一つだが、遠藤智夫氏の父である遠藤力氏の著作から、遠藤家には、遠藤於菟の恩人吉村忠道の息子吉村樹と終生交流があったことがわかった。吉村樹(しげる)は藤村と兄弟のように育ち、藤村の作品にも度々登場している。


4 遠藤於菟が使用した篆刻用具
野村和子氏所蔵
5 遠藤於菟の篆刻による蔵書印
遠藤智夫氏所蔵
一方、遠藤直一郎氏は信州佐久出身で、遠藤於菟と同様に青春の志を抱いて苦学生として上京し、銀座の原田敬吾という弁護士事務所の書生に住み込み、苦学して弁護士となった。原田敬吾はバビロン語の大家という変わり種だったが、その事務所は、遠藤於菟や島崎藤村がいた銀座の吉村宅のすぐ近くにあった。吉村忠道を中心とする同郷人のネットワークが存在し、その中で、遠藤於菟と遠藤直一郎氏の邂逅(かいこう)があった、そんな気がしてならない。だが、於菟と同じく、遠藤直一郎氏もまた自らの生い立ちを語らなかったという。
建築家と弁護士として、共に明治の夢を実現した二人の青春の彷徨。そこには黙して決して語ることがなかった苦さと哀しみが漂っているように思う。