横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 西洋館とフランス瓦 ―横浜生まれの近代産業
第13号 2010年2月

図1

横浜時代のジェラール

コレージュ・ド・フランス

日本学高等研究所所蔵

西洋館とフランス瓦

―横浜生まれの近代産業

幕末の文久3(1863)年、一人のフランス人が横浜の地を踏んだ。

彼の名前はアルフレッド・ジェラール(

)。横浜の山手を拠点として、日本ではじめてフランス瓦の製造と販売をおこなった実業家である(

図1

)。

来日当初、ジェラールは小麦粉やソーセージなどの小売業を営んでいたが、明治初年に山手居留地の77番地(現在の元町1丁目77番地)を得ると、山手の湧き水を利用して、船舶への給水事業を興すとともに、洋風建築の建設材料となるフランス瓦や煉瓦の製造を開始した。

山手のジェラール工場

第13号 2010年2月
第13号 2010年2月

図2

フランス瓦の葺き方

図3

ジェラール瓦I型

当館所蔵

(左)表面(右)裏面。裏面にカタカナで「ジェラール ヨコハマ 百八十八バン」の文字と製造年「1873」が刻まれている。

ジェラールが製造していたのは、ヨーロッパの瓦のなかでもフランス瓦と呼ばれるもので、日本の瓦と違い、千鳥に葺いていく種類の瓦である(

図2

)。瓦の裏面にある突起を桟に引っかけて葺いていくために、葺き土を使うことがなく、屋根が軽くなるという利点がある。急勾配の屋根をもつ西洋館には有効なのである。

ジェラール製のフランス瓦は、裏面にジェラールの名前と製造年が刻まれており、その型式は大きく3種類(I型・II型・III型)に分けられる。最初期のものとみられるI型の瓦には「1873」と数字が刻まれており、明治6(1873)年には瓦の製造を開始していたことがわかる(

図3

)。

第13号 2010年2月

図4

明治初期のジェラール工場

横浜開港資料館所蔵

図4は、明治初期の山手居留地を撮影したものである。中央に見える尾根道が山手本通りで、中央左の西洋館はアメリカ海軍病院、ちょうど現在の横浜地方気象台の位置にあたる。そして谷あいに写っているのがジェラールの瓦工場である(

図4

枠内)。

ジェラール工場は、蒸気機関を備えた近代的設備を誇っていたが、この写真を見るかぎり、当初は木造の簡素な建物から出発していることがわかる。棟の上に空気抜きを備えた工場の奥には、瓦の下地を乾燥させるためのスペースが広がっており、六連の屋根が架けられている。ここで十分に乾燥させた瓦は、その奥に設けられていたであろう窯で焼成され、国内初の西洋瓦として各地の西洋館の屋根を彩った。

日本人がつくったフランス瓦

〜模倣ジェラール瓦の登場〜

ところが、ジェラールがつくったフランス瓦には、早くからライバルが出現した。明治10(1877)年、東京上野で開かれた第1回内国勧業博覧会に、複数の日本人職人がつくったフランス瓦が出品されているのである。

博覧会の審査評には「仏蘭西製ノ模造ニシテ形質共ニ佳ナリ開業ノ功嘉スベシ」と書かれており、これらの瓦がフランス瓦、すなわちジェラール瓦を模していたことがわかる。しかも「開業ノ功」とあるとおり、日本人職人たちはすでに模倣瓦の販売も始めていた。おそらく彼らは見よう見まねでつくったのであろう。埼玉県深谷市の元瓦製造業者宅には、明治期のものと思われるフランス瓦の木製押型が複数残されており、従来の製造方法とは異なるプレス式での下地製作に、試行錯誤を重ねていた様子がうかがえる。

ジェラール工場はたまらず、明治13(1880)年に「偽物注意」という広告を新聞紙上に掲載しているが、おそらくはこうした模倣瓦の登場を機に、新しい型(II型)の導入に踏み切ったものと思われる。

第13号 2010年2月
第13号 2010年2月
第13号 2010年2月

図5

旧柳下家住宅

図6

屋根に葺かれた

模倣ジェラール瓦

図7

(左)ジェラール瓦

(右)模倣瓦

当館所蔵

この博覧会に出品されたフランス瓦がどのようなものだったのかは分かっていないが、模倣ジェラール瓦は、これまでも各所で発見されている。市内で確認できるのは、磯子区下町にある旧柳下家住宅に葺かれたものである(

図5、6

)。

弁天通で洋鉄物問屋を営んでいた柳下家の住宅として大正年間に建てられた建物は、和館と一間の洋館と蔵からなるが、この洋館部分の屋根に、現在も模倣ジェラール瓦が葺かれている。岡本東三氏(千葉大学教授)の調査では、6種類の模倣ジェラール瓦が確認されている。

柳下邸に使用されている模倣瓦を、本家の瓦と並べて比較してみると(

図7

)、一見、ほとんど区別がつかないものの、模倣ジェラール瓦の方が一回り大きいうえ、細部の彫りも浅い。なお、柳下邸の改修工事の際には、本家のジェラール瓦も2枚確認されたという。そのうち1枚は蔵に展示されており、1枚は現在もそのまま屋根に葺かれている。

ジェラール瓦/継承と断絶

さて、その後のジェラール工場であるが、すでに明治11(1878)年の時点でジェラールは横浜を離れている。事業が軌道に乗ったのを見届けたということであろうか、瓦工場の経営は同じフランス人のドゥヴェーズ(

)が引き継いだ。

ジェラールと同じく、文久3(1863)年に来日したドゥヴェーズは、幾つかの商館での勤務を経たのち、明治15(1882)年にジェラール工場の経営権を譲り受けている。彼は、木造だった工場の施設を煉瓦造の堅固なものへと建て替え、ジェラール工場の新たな繁栄の時代を築いた。元町公園の手前に現存する煉瓦造の地下貯水槽は、この後継者ドゥヴェーズによって築造されたものであろう。

その後、ジェラール工場は明治40(1907)年頃まで稼働していたが、同年に工場の機械類が売却され、廃業になったとみられる。工場の跡地は、関東大震災ののちに市有地となり、昭和5(1930)年に元町公園として生まれ変わった(

図8

第13号 2010年2月

図8

現在の元町公園

プール管理事務所棟には、市内の民家で発見されたジェラール瓦が葺かれている。

ジェラール工場は、国内でもごく早い段階から蒸気機関による機械製造を実現していながら、その技術をどこにも継承することなく、明治の終わりとともに、ひっそりと終焉を迎えたのである。

その後、大正6(1917)年に、愛知県三河地方にフランス瓦を製造する日本洋瓦会社が設立される。ジェラールと同じく機械製造のフランス瓦を手がけた同社の製品は、昭和期以降、ジェラール瓦に取って代わって全国に広がっていった。

(青木祐介)