横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 昭和の横浜をつくった 建築家たち
第12号 2009年7月

図1 現在の大倉山記念館

横浜の都市と建築の歴史を振り返ったとき、開港以来の街並みを一変させたのが、1923(大正12)年の関東大震災であった。

震災によって、それまで都市の主役であった赤レンガの建物は甚大な被害を受け、その後の街並みは、耐震耐火構造の鉄筋コンクリート建築が中心となっていく。昭和期に活躍した建築家たちは、この鉄筋コンクリートという骨格の上に、多種多様な建築様式をかぶせていった。

なかでも、クレタ・ミケーネ様式にもとづいた大倉精神文化研究所(現・大倉山記念館、図1)は、昭和戦前期の百花繚乱ともいえる建築様式のなかでも群を抜いた存在である。

成熟する建築様式

明治時代、日本人建築家たちはヨーロッパの建築様式の模倣に努めていた。その最良の成果として、第一世代の建築家である妻木頼黄が手がけたネオ・バロック様式の横浜正金銀行本店本館(現・神奈川県立歴史博物館)などが知られる。

その頃、すでにヨーロッパでは、過去の様式から脱却しようとする建築運動が起こり始めており、植物文様をモチーフにしたアール・ヌーヴォーなどのモダンデザインが、日本にもリアルタイムで採り入れられるようになった。横浜でいえば、遠藤於菟による一連のアール・ヌーヴォー建築が挙げられる。

それでもなお、日本人建築家たちは過去の建築様式を捨てることはなかった。むしろ大正期から昭和戦前期にかけては、明治以来の建築様式の成熟度が最高潮に達した時代であった。なかでも古代ギリシャ・ローマの建築を源とする古典主義様式は、その偉容から銀行建築を中心に採り入れられ、横浜でもメインストリートである本町通りには、古典主義の銀行建築が軒並み建ちならんだ(図2、3)。

第12号 2009年7月
第12号 2009年7月

図2 昭和戦前期の本町通り

当館所蔵絵葉書

馬車道との交差点より本町1 丁目方向を望む。右手前は1929年完成の安田銀行横浜支店(現・東京藝術大学大学院映像研究科)。

図3 旧第一銀行横浜支店

(現・アイランドタワー)

特異点としての大倉精神文化研究所

そのなかにあって、1932(昭和7)年、きわめて特異な様式をまとって誕生したのが、長野宇平治の設計になる大倉精神文化研究所である。

実業家大倉邦彦の理念のもとに設立された同研究所の様式として長野が採用したのは、古代ギリシャをさらに遡るクレタ・ミケーネ文明の建築様式であった。シュリーマンの発掘調査によって19世紀に明らかにされた同文明の存在は、ヨーロッパの人々にとって新たな始源の登場を意味した。その新しい古典を、発見から半世紀近くを経て極東の地に甦らせたのが、この研究所の建物である。

第12号 2009年7月
第12号 2009年7月
第12号 2009年7月

図4 記念館内部

図5 殿堂

当館所蔵絵葉書

図6 長野宇平治肖像画

フェルナンデス家所蔵

下に行くほど細くなる裾細りの円柱や、連続する螺旋文様などの細部をもつこの様式(図4)は、建設当初から「プレ・ヘレニック」、つまりギリシャ以前の様式だと謳われてきたが、近年、より正確な呼称として「クレタ・ミケーネ様式」が用いられるようになっている(勝又俊雄「大倉精神文化研究所の建築の研究」『大倉山論集』第47集)。

異質なのはそれだけではない。施設の中心に位置する殿堂(現在のホール)では、裾細りの木の柱の上に、日本の寺社建築を思わせる組物が載り、木の天蓋を支えている(図5)。クレタ・ミケーネ様式と日本の伝統様式とが折衷された、不思議な木の空間である。

設計者の長野宇平治(図6)は、遠藤於菟と同じく日本人建築家の第二世代にあたる。長く日本銀行の技師を務め、生涯に手がけた設計の大半が銀行建築であった。そのいずれもが彼の手堅い様式感覚を示しており、古典主義建築の名手と評される所以となっている。また古典主義建築に関する洋書を数多く収集していたことでも知られており、その長野が晩年になって、当時誰も見たことのない様式を用いて作り上げたのが、この大倉精神文化研究所であった。

謎は残されたまま

第12号 2009年7月

図7 断面図 1929年9月 大倉精神文化研究所所蔵

同研究所に建設当時の膨大な資料が残されていたことから、近年、詳細な設計プロセスが明らかになってきた(安田徹也「大倉精神文化研究所の設計過程」『建築史学』第50号)。それでもなお、なぜクレタ・ミケーネ様式でなければならなかったのか、誰の発案によるものなのか、肝心な謎の部分は、残された資料からうかがい知ることはできない。

むろん、精神文化研究所としての建物の性格から、施主としての大倉邦彦の存在は大きかったはずであるが、かといって大倉の思想がすべてを説明するとも思われない。勝又氏も指摘するように、最初の問いに対しては、クレタ・ミケーネ様式に「新たな古典」としての意義を長野が見出したと考えるのが自然であろう。

そう考えるならば、さまざまな建築様式が選択可能であったこの時代に、様式そのものにあらためて規範としての意義を見出そうとした長野の視線こそ、注目すべきではないか。あたかも交換可能な衣服のごとく、鉄筋コンクリートの躯体の上にヨーロッパから日本まで様々な時代のスタイルが展開した昭和戦前期という時代にあって、大倉精神文化研究所の建築は、様式が様式としての意味を放とうとした最後の瞬間ではなかったかと思われるのである。結果として、それが新たな一様式として相対化される運命であったとし

ても。

やがて終戦とともに、衣服を脱ぎ捨てたモダニズム建築が日本の都市を席巻する。

(青木祐介)