横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 汽車から電車へ ―「東京横浜間電気工事記念写真帖」―

古写真の撮影場所を推定する

〜東京築地居留地の写真より〜

第10号 2008年4月

5 築地居留地遠景

写真5は、横浜開港資料館所蔵アルバム(No.213)に収録された手札判写真の一枚で、明治初期の和洋折衷建築として名高い東京・築地ホテル館(写真6)の望楼から撮影したものである(金行信輔氏のご教示による)。撮影者は不明。

第10号 2008年4月

6 築地ホテル館『ファー・イースト』1870年8月16日号(横浜開港資料館所蔵)

海側から見た築地ホテル館。建物の背面にあたるが、本来はこちら側を正面として設計された。ヴェランダと海鼠(なまこ)壁(壁面に平瓦を貼りつける伝統的構法)の組合せは、この時期の多くの和洋折衷建築に見られる特徴。

外国人向けのホテルとして築地ホテル館が開業したのは1868年のことで、当時はYedo Hotelと呼ばれていた。しかし、ホテルとしての経営は数年しか続かず、兵部省海軍部へと売却されて間もない1872年4月、銀座一帯を襲った火災により焼失した。したがって撮影時期はこの火災以前ということになる。

手前に写っているのがホテル館の瓦屋根で、T字形の棟の方向と右奥を流れる隅田川の位置から、ホテル館望楼より北東の方角(隅田川の上流方向)を撮影したものとわかる(図7)。

第10号 2008年4月

7 築地居留地略図『都史紀要四 築地居留地』(東京都、1957年)掲載

地番が振られた中央のエリアが外国人居留地。現在の中央区明石町にあたる。左右の赤く塗られたエリアは相対借(あいたいが)り地域(雑居地)。左端の「外国人旅館」と書かれた場所に築地ホテル館が建っていた。

画面中央の日本家屋が密集している地域が、雑居地の南小田原町にあたり、その奥に広がる空地が居留地である。左奥に見える茂みは、「ヘーレン屋敷」として知られた31番地で、築地居留地の最初の住人とされるハンブルク出身の商人ヘーレンが、旧越後村上藩の藩邸をそのまま借り受けて住んでいた(川崎晴朗『築地外国人居留地』)。

居留地内にはまだほとんど建物は建っておらず、雑居地との境にあたる23、41番地に、建設中のものを含めて洋館が数棟確認できる程度である。居留地の最初の競売(実際は競貸)がおこなわれたのが1870年6月2日であるから、撮影時期は年内くらいに絞れるのではないか。なお、最初の競売で23、41番地を入手したのは、ドイツ商人のアーレンスであった。

本写真は、居留地の整備が始まった頃の築地一帯を捉えた貴重な一枚だといえるが、さらに望楼からの撮影であることを考えると、パノラマ写真として撮影された一枚である可能性も高い。これに続く写真が発見されることを期待したい。

(青木祐介)