- 写された文明開化 PART II ―古写真の撮影年代と撮影場所を推定する―
写された文明開化
PART II
古写真の撮影年代を推定する
〜その楽しさと難しさについて〜
企画展示ごとにアンケートの記入をお願いしている。アンケートにはお叱りの言葉もあればお褒(ほ)めの言葉もあり、毎日恐れと期待の入り混じった気持ちで読んでいる。
昨年9月から今年の1月にかけて実施した「写された文明開化」展でも、2184名もの方に回答をいただいた。そのなかで多かった意見に「写真の撮影年代を書いて欲しかった」というのがあった。展示を観覧する立場からはまことにもっともな意見だけれども、展示を企画する側からするとこれがなかなかむずかしい。そのことについて、展示した一つの写真を例にとって述べてみようと思う。
写真2は「各地の風景」のコーナーに展示したもの、東海道の箱根旧街道、湯本と畑宿の間から双子山方面を望んだものと考えられている。この写真をよく見ると、中央左手の松に3本の腕木が打ちつけられている。これは東京・長崎間の電信線の一部、松の木を電信柱代わりにしたものであり、こんなところにも文明開化の息吹が感じられると思って展示することにした。


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この場所は、幕末にイギリス人写真家F・ベアトが撮影して以来(
写真1
)、写真撮影の名所となったようで、時代の異なるいくつもの写真が残されている。横浜開港資料館の他、長崎大学附属図書館(同館のホームページ「
長崎学デジタルアーカイブズ―幕末明治期日本古写真コレクション
」による)などが所蔵するものを列挙すると次のようになる。
Men halting in the Hakone Pass F・ベアト撮影・横浜開港資料館所蔵(横浜開港資料館編『F・ベアト写真集1』79頁、同『F・ベアト写真集2』15頁、いずれも明石書店刊)
写真1
Hata 臼井秀三郎撮影・横浜開港資料館所蔵(横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編『文明開化期の横浜・東京』131頁、有隣堂刊)
写真2
G24 TOKAIDO, NEAR HATA A・ファルサーリ撮影・横浜開港資料館所蔵(目録番号Ac1-144-49, Ac1-169-40)、長崎大学附属図書館所蔵(目録番号4259)
997, Futagoyama from Hata 日下部金兵衛撮影・横浜開港資料館所蔵(横浜開港資料館編『彩色アルバム明治の日本』57頁、有隣堂刊)
写真3
無題 長崎大学附属図書館所蔵(目録番号2111)
無題 横浜開港資料館所蔵(目録番号Ac1-179-38)、長崎大学附属図書館所蔵(目録番号631)
写真4
無題 国際日本文化研究センター所蔵(『箱根彩景―古写真に見る近代箱根のあけぼの―』7頁、箱根町立郷土資料館編・刊)
これらを二つの点に着目して比較検討してみた。
電信用の腕木と柱
(
写真2
)には腕木が3本明瞭に写っているのに対して、
には上の1本だけ写っており、下の2本が剥がされた跡が見える。
(
写真3
)には上の1本がかろうじて見える。
(
写真1
)と
には腕木がない。
(
写真4
)
には腕木がなく、脇に電信柱がある。
電信にだけ着目すると、写された順番は、腕木も電信柱もない
→腕木のある
→電信柱のある
となるように思われる。
樹木の状態
しかし、写っている木に着目すると、それとは違う順番が想定される。
― Cの松に添ってつるが下がっている。Dの木は確認できないが、
ではEの木が頭をもたげているように見える。
〜
― Bの枝の一つ(F)が垂れ下がっている。
〜
― DとEの木が成長している。
撮影年代の推定
以上のことを整合的に理解するために、『帝国大日本電信沿革史』(逓信省電務局、明治25年)で電信のことを調べてみた。
明治6(1873)年2月、東京・長崎間に電信が全通したことはよく知られている。そこで展示では
(
写真2
)の説明に、明治6年「東京―長崎間に架設された電信線を支える腕木が見える」と書いたのだが、遺憾ながらそれは間違いだった。
電信が箱根を越えたのは何時か。沼津電信局が明治5年9月に開局しているので、その頃にはすでに越えていた。しかしそれは旧東海道沿いではなく、小田原から矢倉沢を経て沼津に至るものだった。ところがこの路線は険しい山中を通るため、暴風雨などの被害に備えにくいとして、8年6月7日、それとは別に旧東海道沿いの新線が架設された。
(
写真2
)に見える腕木はこの時のものだった。事故や混雑に備えて東京・長崎線には3線架設されていたので、旧東海道沿いの新線にも3線あったはずだ。
(
写真2
)に腕木が3本あるのはそのためであろう。
明治16年、旧東海道沿いの電線は老朽化していた。そこで9月20日、小田原から熱海を経て三島に至る新線が架設され、熱海に分局が置かれた。現在のJR東海道線とほぼ重なる路線である。これにともない、旧東海道沿いの電線は箱根分局用に1線を残して他を廃した。箱根線が東京・長崎間の本線からはずれ、支線となったのはこの時であろう。腕木が上の1本だけで、下の2本が撤去されている
はこの時期の写真だと思われる。したがって腕木が3本ある
(
写真2
)は明治8年から16年の間に撮影されたことになる。
明治21年2月26日、小田原・箱根間に1線増架された。これが
(
写真4
)
に写っている電信柱であろう。そうすると、腕木が1本で電信柱のない
は明治16年から21年の間に撮影されたことになる。電信柱の設置にともなって、松の木の腕木は撤去されたと思われる。
(
写真4
)
には撤去された跡が3箇所写っている。
不思議なのは腕木も電信柱もないのに、DとEの木が成長している
だ。腕木の撤去と電信柱の設置の間にズレがあって、その間に写されたとでも考えないと説明がつかない。
古写真の撮影年代を推定するのは難しいけれども、推定の過程で得られる知識も多い。しかし同じ場所を異なる年代に撮影した写真が7枚も揃うのは稀なケースだ。撮影年代の推定は徒労に終わることのほうが多い。それでもできるかぎり調査研究し、解説の質を高めていくのがわたしどもの務めだと思う。
(斎藤多喜夫)