横浜都市発展記念館

ハマ発 NEWS LETTER
  • 常設展示より 復興記念横浜大博覧会
第1号 2003年10月

常設展示より

復興記念横浜大博覧会

当館常設展示は「都市形成」「市民のくらし」「ヨコハマ文化」の三つのゾーンで構成されています。

震災復興から「大横浜」建設へ

幕末の開港以来、横浜は商業貿易都市として急成長を遂げた。しかし、明治時代も終わりに近づくと、神戸港の台頭や東京開港問題などによって、その地位は安泰でなくなった。活路と考えられたのは、全国的なすう勢でもあった工業化であった。新たな町づくりが緒につこうとしていた矢先の1923(大正12年)9月1日、南関東地方を大地震が襲った。公共施設をはじめ、商店・工場・上下水道などが破壊され、さらに市内各所で出火した火災が都心部を襲い、市街は焼け野原と化した。

復興事業は横浜市復興会を中心に進められた。それは単なる復旧ではなく、震災前からの都市計画をも盛り込んだ土地区画整理・道路網整備・公園整備などから成っていたが、十分な予算を確保できず、かなり規模を縮小しなければならなかった。事業は精力的に遂行され、復興会は三年後の1926年(昭和元)年に解散、1929年4月24日には、新設された野毛山公園で、復興祝賀式と園遊会が盛大に挙行された。 これ以降、市政の焦点は、震災前からの課題であった工業化を核とするあらたな都市建設に移っていく。それは、

外防波堤の築造、

臨海工業地帯の造成、

市域拡張を柱とするもので、「横浜市三大事業」と呼ばれた。また「大横浜建設」のスローガンも掲げられた。

▼震災復興については、常設展示「都市形成」ゾーンのグラフィック・パネルで解説しています。

山下公園で開かれた復興記念横浜大博覧会

海岸通り地先海面は、震災の際の瓦礫(がれき)の投棄場所に指定されたが、その瓦礫の上に、日本初の臨海公園として山下公園が整備された。1935(昭和10)年3月26日から5月24日にかけて、この山下公園を主会場として、「復興記念横浜大博覧会」が開催された。

1935年といえばすでに震災復興よりも「大横浜建設」に焦点が移っていた。事実この博覧会は当初の計画では「産業博覧会」と呼ばれており、工業化を核とする新生横浜をアピールすることが目的だった。博覧会には全国各地や外国からも出品があり、また趣向をこらしたテーマ館が多数設営された。入場者は延約323万人、当時の横浜市の人口約70万人の4.6倍を数えた。新生横浜にかける市民の熱い思いが伝わったのであろう。

しかし、この「大博覧会」は、すでに始まっていた十五年戦争の渦中に咲いた徒花(あだばな)だったのかもしれない。市民の思いは戦時体制にかき消され、戦後まで凍結されることになったのである。

▼復興博覧会に関する資料は、常設展示「都市形成」ゾーンに展示されています。

(斎藤多喜夫)

復興記念横浜大博覧会鳥瞰図
復興記念横浜大博覧会鳥瞰図
 横浜開港資料館所蔵・加山道之助旧蔵資料より複製。加山氏は横浜市史編纂主任を務めた後、博覧会当時は横浜史料調査委員会委員、俳人・横浜史料のコレクターとしても知られた。
 博覧会では「横浜歴史大行列」実施の中心となるとともに、各種のチラシや記念のワッペン、駐車票から弁当の包み紙に至るまで丹念に収集し、市民にとっての一大イベントを後世に伝えようとした。それらは御遺族の御厚意により横浜開港資料館に寄贈され、先に当館で開催した企画展示「横浜リバイバル―震災復興期のまちづくり―」に多数出品された。現在は開港資料館で閲覧することができる。
復興博覧会記念のダルマ
復興博覧会記念のダルマ
 「横浜リバイバル―震災復興期のまちづくり」を観覧された山本寿美氏より寄贈していただいたもの。企画展示終了後、さっそく常設展示に追加した。大きさは高さ6センチ、最大幅5センチ、ペーパー・ウェイトとして作られたのであろう。