- 地中に眠る震災の記憶 〜第二代横浜駅遺構の出土現場から〜

第二代横浜駅(絵葉書)
横浜開港資料館所蔵
地中に眠る震災の記憶
〜第二代横浜駅遺構の出土現場から〜
今年の5月下旬、東急東横線高島町駅前の駐車場跡地からレンガ構造物が出土した。
高島町駅付近といえば、現在の東急線が開通する以前の大正時代に、横浜駅があった場所である。この横浜駅、あまり知られていないが、現在の桜木町駅にあたる初代横浜駅に次いで建てられた二代目で、1915(大正4)年の竣工から間もない1923(大正12)年に関東大震災で被災し、わずかの間しか利用されなかった。絵葉書などに見るように、その駅舎は、中央に塔を立てた堂々たる煉瓦造の建物であった。
当時の駅舎平面図を現地で比較対照したところ、間違いなく、横浜駅のレンガ基礎であることが確認され、急きょ敷地内の残りの遺構を確認するために緊急の調査がおこなわれることとなった。当館では、(財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターおよび横浜国立大学工学部建築学教室吉田鋼市研究室とともに、この遺構調査に携わった。調査の結果については、あらためて報告の機会を設ける予定であるが、遺構の概要について急ぎ報告しておきたい。
二度の移転をした横浜駅
1872(明治5)年に開業した初代横浜駅は、現在の桜木町駅前付近に位置していたが、東海道本線の直通列車は、横浜駅を経由するには一度スイッチバックして方向転換をしなければならなかった。この不便を解消するために、横浜駅を経由せず、神奈川から平沼を通って保土ヶ谷に抜ける短絡ルートが設けられたが、新たに設けられた平沼駅は横浜市街から遠く、横浜市民にとっては逆に不便な状況となった。
こうした経緯ののち、スイッチバックの不便もなく市街から遠く離れることもなく、すべての東海道本線の列車が横浜駅を経由できる形で、高島町への横浜駅移転が決定し、新駅舎が建設される。開業は、1915(大正4)年8月15日。それに伴って、初代横浜駅は「桜木町」駅と改称した。
しかし、開業から十年も経たない1923(大正12)年、関東大震災によって駅舎は大きな被害を受ける。震災後、しばらくは仮駅舎での営業が続けられたが、震災復興を機に、高島町付近で大きく屈曲していた東海道本線のルートを直線化し、列車のスピードアップを
図ることとなり、横浜駅は再度移転が決定。神奈川よりの現在地に移されることになった。三代目となる新駅舎は1928(昭和3)年に竣工し、横浜の新たな顔となった。


駅舎遺構全景(筆者撮影)
黄文字が駅舎遺構部分、赤文字が発電所遺構部分
駅舎平面図(『業務資料研究』掲載図より作成)

駅舎基礎に用いられた
金町煉瓦製造所製の煉瓦
(筆者撮影)
出土した二代目横浜駅のすがた
二代目の駅舎は煉瓦造2階建てで、東海道本線と京浜電車線(現京浜東北線)が分岐する三角形の敷地に建ち、駅舎のかたちも敷地に合わせて不等辺三角形をしていた。
鉄道院発行の『業務資料研究』第三巻第六号(1915年10月)によると、建物の規模は正面の長さが210尺、背面(東海道本線沿いの面)が300尺、側面(京浜電車沿いの面)が160尺で、高さは正面中央の八角塔頂部まで80尺あった。1階には案内所、手荷物受付所、駅長室、電信室などがあり、2階には改札のほか、待合室、食堂、貴賓室、売店などが設けられた。建築様式は「ルネッサンス式にセセッション式を加味したる」とあるように、赤レンガを主体に花崗岩の白い帯で外観にアクセントを付けるものであった。設計は鉄道院がおこない、施工は清水組(現清水建設)が担当した。
出土した駅舎基礎は、正面中央の乗車口とそれに隣接する手荷物受付所を中心とした部分である。構造は、コンクリート基礎の上にレンガが載った布基礎で、レンガ部分はイ
ギリス積みであった。その厚さは、外壁部分が4枚厚、間仕切壁部分は3枚厚および3枚半厚であった。レンガ基礎には各所で亀裂が入っており、関東大震災のすさまじさを物語っていた。
前出の『業務資料研究』によると、駅舎には「金町及日本煉瓦製造所」でつくられたレンガ約150万個が使用された。記述を裏づけるように、基礎上面のレンガの表面には、東京・葛飾の金町煉瓦製造所のものであることを示す、円を二つ重ね合わせた刻印が随所にみられた。また、日本煉瓦製を示す刻印をもつレンガも出土し、出土物のなかからは、刻印をもったレンガを中心に、タイル・磁器などの遺物を採集した。
注目すべきは、軟弱な地盤に対処するために用いられたコンクリート基礎杭である。現場では数カ所の基礎の下から、約1.5mの等間隔で打ち込まれたコンクリート杭の存在が確認された。現場打ちのコンクリート杭の使用は、旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館工芸館)など明治末の事例が知られているが、当時は基礎杭といえば松杭が主流であり、同時代の東京駅も基礎は松杭であった。横浜駅での使用は、大正初期という時期から考えて、きわめて初期の事例に属するといえる。
また、駅舎の遺構から少し離れた位置には、大谷石を載せたコンクリート基礎も出土した。位置から判断すると、東海道本線下りホームの基礎と思われる。当館では、線路部分に相当する場所で地層の剥離採取をおこなった。分析手法が定着すれば、今後、近代の遺構を調査するうえでさまざまな情報を引き出すことができると思われる。
新たな遺構あらわる
一方、調査を進めていくと、横浜駅とは異なる新たな遺構も出土した。駅舎のコンクリート基礎の下から、10mほどの長さのトンネル状のレンガ構造物が顔を出したのである。トンネルの先にはアーチ状の開口部を備えた長方形の区画が連なり、さらに大きな楕円形の区画へとつながっていた。
建物の基礎の下にさらに構造物をつくるなどは通常考えられず、また、駅舎の基礎がこれらの構造物の一部を壊して据えられていることから、横浜駅建設以前の遺構であると推定された。そこで、横浜駅移転前の現地の状況を調べてみたところ、当時この場所は、横浜電気株式会社の裏高島町発電所の敷地であった。
1912年、第二代横浜駅の建設にともなって敷地の一部を鉄道院に譲渡することとなり、発電所機能は神奈川へと移転するが、そのときに遺棄された施設が出土したのである。
『横浜電気株式会社沿革史』(1922年)に掲載されている発電所内の建物配置図(1908年当時)には、現在の発掘区域に相当する敷地南端に楕円形が描かれており、煉瓦造の「第二海水引入口」と記されている。火力発電の行程で、タービンを回すために使用した蒸気を再利用する際に、海水を利用して冷却したのであろう。出土した楕円形の構造物は、位置的にもこの海水引入口とみて間違いなく、当時は敷地のすぐ側を石崎川が流れていたので、トンネル状の煉瓦造導水路により川から海水を引き込み、楕円形の水槽に蓄えていたものと思われる。
水槽の底面はレンガの上端から4.5m以上の深さに達しており、駅舎を建設する際には、これだけの深さに埋設された構造物すべてを撤去するわけにいかず、建物基礎が重なる範囲だけを壊したとみられる。
遺構が語る都市横浜の歴史
短命に終わったとはいえ、第二代横浜駅は、横浜の表玄関であった重要な都市施設である。堅固に築かれた基礎の遺構からは、駅舎の往時の規模が実感できるし、当時の建設技術の詳細も知ることができる。それ以上に、遺構の存在そのものが、関東大震災で壊滅した都市横浜の歴史の証人である。加えて、二つの時期の遺構が出土したことで、高島町という場所が経てきた歴史も読みとることができる。
関東大震災で壊滅的な被害を受けた横浜では、震災以前の都市の姿をしのぼうとしても、数えるほどの建造物にしかその面影をみることができない。しかし、煉瓦造や石造などの建造物の場合、今回のように、基礎部分は破壊されずに残っている可能性が大きい。震災と空襲で多くの資料が失われた横浜にとって、これら近代の遺構が教えてくれるものは計りしれない。今回の発見が、今なお地中に眠っているであろう多くの遺構に対して関心を高める契機となれば幸いである。
現地調査では、埋蔵文化財センターの鹿島保宏・橋本昌幸の両氏、横浜国立大学の吉田鋼市教授から、多くのご教示をいただいた。また、都市基盤整備公団および横浜市教育委員会事務局文化財課には、調査に多大な便宜を図っていただいた。ここに記して感謝いたします。
(青木祐介)