
「横浜鉄道館蒸気車
往返之図」
(部分)
三代広重・画
明治初期
横浜開港資料館所蔵
ごあいさつ
19世紀の西洋人は、自分たちに世界を文明化する義務があるという尊大な考えをもっていました。19世紀の文明とは端的に科学・機械文明のことであり、とくに鉄道は文明化の牽引車と考えられていました。日本を開国に導いたアメリカのペリー提督も、自らの使命を「特異で半ば野蛮な一国民を、文明諸国民の家族の中に組み入れる」ことだと明言しています。そのペリー提督が、日本への贈り物のなかに模型の蒸気車と電信機を含めたのは、文明の威力を見せつけるためでした。
日本人は西洋人の尊大さに時として反発しつつも、科学・機械文明の価値にはほとんど疑いを抱きませんでした。京浜間に鉄道が開通したのは、ペリー提督が模型の蒸気車を披露した1854年から数えてわずか18年後の明治5(1872)年のことでした。
中国最初の鉄道が上海―呉淞(ウースン)間に開通したのは、それより遅い1876年、しかもそれはイギリス商人たちが中国政府に無断で建設したものでした。政府の手になる鉄道の開通は1881年ですが、これはラバが牽(ひ)くもので、蒸気機関車が導入されたのは翌年、中国が南京条約によって西洋諸国に門戸を開いた1842年から数えて40年後のことでした。
西洋文明の窓口である横浜と結ぶ東京側の駅が、築地の外国人居留地の西に接する新橋に設けられたように、それは強く西洋諸国の目を意識したもので、折しも焼失した隣接の京橋地区に銀座煉瓦街が建設されたことと軌を一にするものでした。
明治5(1872)年9月12日の開業式当日、昨日までの荒天が嘘のような晴天のもと、明治天皇が乗車して新橋―横浜間を往復する間、両駅では花火が打ち上げられ、横浜の町は日章旗と日の丸を描いた提灯で飾られました。これが国旗掲揚の最初とされます。東京では軽気球を飛ばす計画もあったのですが、それが実施されたかどうか、まだ確認していません。いずれにせよ、それは単なる鉄道開通というよりも、“文明国家建設宣言”ともいうべき、国を挙げての祭典だったのです。