横浜都市発展記念館

都市計画のはじまり

1919(大正8)年、横浜市は、交通網・ライフライン・住宅施設等の計画に着手した。
こうして始まった都市計画事業は、財政難や関東大震災によって一時中断したが、震災復興の過程で部分的に実現し、現在の都心部の骨格が形成された。

関東大震災の直後の火災による焼失区域を示している。震災によって、市街地の中心部は大きな被害を受けた。

震災復興のために招かれた内務省技師の牧彦七が作成したもの。土地区画整理、道路改修、公園整備などの復興事業のグランドデザインとなった。

関東大震災からの横浜の完全な復興を祝して、昭和10年、山下公園で博覧会が開催された。

都市の膨張と交通網の整備

震災復興を遂げた昭和期の横浜市は、4度にわたる市域拡張を重ね、臨海部の工業地帯や農村・住宅地を編入していった。これにともなって、鉄道・道路等の交通網も順次整備された。

復興事業によって整備された桜木町通りに荷車、自転車、馬車、自動車、路面電車が並ぶ。
高架を走るのは省線電車(後の国電)。

神中鉄道(現相模鉄道)はもともと砂利輸送が中心だったが、郊外電車に変わっていった。

戦争と都市計画

戦争の激化にともない、都市計画も防空を目的としたものへと傾斜していったが、度重なる空襲によって、市街の大半は焼き払われてしまう。戦後も、長期にわたる接収によって横浜の戦災復興は大きく立ち遅れることとなった。

戦時下の配給制度で使用された購入通帳。世帯ごとに交付され、食料品をはじめ、マッチや石けんなどの購入が細かく管理された。

米軍によって作成されたもの。図中の赤色部分が爆撃による罹災区域。

戦災からの経済復興には貿易の振興が不可欠であるとして、1949年に開催された。

都市を支えるライフライン

都市に住む人びとのくらしを支えるのが、上下水道や電気・ガスといったライフラインである。横浜では開港以来、外国人居留地の整備にともなって、まちづくりの基盤となるライフラインに西洋の近代技術が導入された。

日本大通りから出土した明治期の下水施設の遺構。臭気対策のための炭箱やトラップ(S字型鉄管)が設置されていた。

横浜建築探訪

ここでは、明治期の赤レンガ建築から、現在のランドマーク建築にいたるまで、横浜の都市建築の歩みをふりかえる。
また、現在の街並みの原点が形づくられた震災復興期に焦点をあて、今では失われた建築の姿を紹介する。

関東大震災で被害を受けた横浜生糸検査所は、1926(大正15)年に耐震性と耐火性を備えた鉄筋コンクリート構造で再建された。震災復興建築のなかでも最大規模を誇る。

横浜風景今昔

交通網の整備や海岸・河川の埋立などにより、街の景観は移り変わる。市内の数地点を選び、それぞれの時代の写真から、景観の変遷をたどる。